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森本あんり 『異端の時代――正統のかたちを求めて』 : ねじれた二項対立

書評:森本あんり『異端の時代――正統のかたちを求めて』(新潮選書)

本書を通読して気づくのは、そのいかにも執筆の苦労が偲ばれる、まとまり(一貫性)の無さである。

現在の日本を代表するプロテスタント学者の著作に対して、素人がこのように断ずるのは申し訳ないが、無理にわかったつもりになれる人以外、多くは私と同じように感じたはずだ。
そして、このように感じられるのも、当然故なきことではない。

端的に言えば、著者は、プロテスタントでありながら『プロテスタント病』という否定的な表現をわざわざ使って見せるほど、プロテスタントとしては保守的な立場にありながら、それでいて、政治的にはリベラルな立場にある、という実質的「二律背反」状態にあるからだ。

そのために前半では、異端を「理想主義的で完璧主義の堅物エリート」といった感じで、皮肉交じりに誉め殺しにする一方、正統については「正典にも教義にも人(聖職者)にも根拠規定されない『聖濁併せ呑む(自堕落な庶民にも寛容な)』存在論的(先験的)正統」だと、対比的なかたちで擁護する。

何故こんなに屈折した、わかりにくい規定になるのかと言えば、著者は、プロテスタントとは言えキリスト教徒である以上、宗教改革以前の異端を肯定することは出来ない一方で、カトリックの客観的教会をそのまま肯定するわけにもいかないからなのだ。
そのため「正統」を、中味を明示的に規定できない「抽象的なもの」としか語り得ないのである。

著者は「正統」に対する一般的な悪イメージ(正統教会は、権威主義的かつ暴力的に、異端を排除撲滅した、という一般的理解)を『陰謀論』だと権威主義的に否定して見せるが、これははっきりと「護教的な嘘」である。

著者は、あたかも異端が自滅し、自然消滅したかのように言うが、正統教会が異端を虐殺した歴史的事実(アルビジョワ十字軍、異端審問など)について、一言も具体的に触れないのが、意識的な「嘘」である何より証拠だ。

たしかに著者の言うとおりで、正統教会が生き残ったのは、半ば幸運(神の意志?)であり、異端を排除し叩き潰してきたからだけではない。
それだけで生き残れるほど、歴史は見えやすいものではないのだけれど、だからと言って、それが直ちに、異端への排除や虐殺や『陰謀』が無かったことにはならない。
正統教会は、ただ平穏に祈っていただけで生き残ったわけではなく「聖濁併せ呑み」大嘘もつきながら、何とか生き残った結果、「勝てば官軍」「死人に口なし」ということで、「正統」の地位を得たのである。
つまり、歴史は生き残った者によって総括されたのだ。

さて、このように、本書の大半を、異端批判、プロテスタント的な正統擁護に筆を費やしながら、まとめとしての「現代の政治情勢」の話になると、著者の批判は「異端よりも酷い、ポピュリズム」へと向かい、(名指しこそ避けながら)現在の自民党・安倍政権が体現するポピュリズム政治批判へと移行する。

そして、その批判は、安倍晋三的な、あるいはネトウヨ的な「自称保守」に対する、正統・保守主義者に典型的な「嫌悪」を露わにする。

実際、本書の中では、エドマンド・バーグ以来の保守主義者の定番である「フランス革命批判」も出てくれば、ポピュリズムではない本物の民主主義としての「議会制の尊重」という定番も登場する。
また、保守主義の敵であるリベラルの祖たる、エマソン、ソローといった人たちへ向けられた悪意も、(異端に対する以上に)とてもわかりやすい表現で語られている。

つまり、著者は軽薄なリベラルが大嫌いな正統保守主義者であり、その立場からすれば、安倍政権はエセ保守主義でしかない、ということなのだ。

だからこそ、連載時(タイトル「権威の蝕 —— 正統の復権は可能か」)には無かった最終章(現在の日本の政治情勢について、他で書いたものを組み込んだ)は、いきなりおかしな具合に「本物の異端たれ、そして正統となれ」というような、妙にドラマチックな、あるいはロマン主義的な、それまでの「異端批判・正統擁護」とは、素直に繋がらない、無理なまとめとなってしまっているのである。

私は、現在の日本の政治情勢に関しては、著者とほぼ同じ立場である。
それは、反安倍、反ポピュリズムであるばかりではなく「リベラル保守」という立場においてもだ。

しかし、キリスト教の歴史に関するかぎり、著者の非現実的な、多分にレトリカルな「正統擁護(としての陰謀論批判)」はとうてい是認できない。端的に言えば、その「護教的虚偽」は容認できない。
著者は「正統とは、すべての後付けの根拠に先んじて、存在論的な正統であった。正統は作られたものではない」という趣旨のことを言うが、正統教会が「聖濁併せ呑む」ものである以上、そこには「血に塗れた手」もあり、それは「自然」や「神の意志」には、とうてい還元できないものなのである。

このようなわけで、本書における「ねじれ」とは、正統擁護に好都合な「抽象的な大衆」に対しては寛容でいられるのに、自身の思想には合わない、個人主義リベラリストやエセ保守ポピュリストには、寛容のカケラも感じられない「異端審問官」的な顔が覗く点においてなのである。

「寛容」とは「罪を憎んで、人を憎まず」ということなのだが、私には、著者がこの難問への直面を避けているようにしか見えないのである。


初出:2018年9月15日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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