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樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか 現代の労働をめぐる社会学/精神分析』 : この〈響かなさ〉の意味するところ

書評:樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか 現代の労働をめぐる社会学/精神分析』(作品社)

私は「現代日本における労働の問題」について、まったく詳しくない。
なにしろ私は、書店に並べられている「経営書」(と言うのかどうかもよく知らないジャンルの書籍)のタイトルと表紙(カリスマ著者の写真が大きく掲げられている類い)を横目で見ながら「いかにもうさん臭いなあ。やすい宗教書そっくりの臭いがする」と眉をひそめ、半分馬鹿にしながら敬遠してきたような人間であり、それはたぶん、私が比較的恵まれた労働環境を生きてきたのと、私自身、金儲けにはほとんど興味がなく、趣味に生きることさえできればそれで満足、結婚などしなくても平気だという、変人の類いだったからであろう。むしろ、世間的な地位や名声や余分な金儲けへの執着はみっともないことと感じられ、だからこそ、そういう「世間の常識」的感覚を持つ人たちからは何を言われてもかまわない。いまの「デゼッサント的生活」が守れるなら、それ以上の無理をする気はない。一一そんな、半ば反社会的な人間だったからかもしれない。

しかしながら、私の趣味的な知的探究心は多方面に渡っており、その究極の願望は「一切智の夢」といったところにあったので、政治問題や社会問題についても、メインではないにしろ重要なテーマとして、ずっと関心を持ちつづけてきた。ただ、なにしろ基本的に、必要に迫られたものではなく、純粋に「趣味的な知的探究心」と、多少の「人間愛」に発するものであったが故に、私の「社会」に対する興味の持ち方は、「大所高所」的であったり「本質主義」的なものであったから、「労働問題」という「生活臭のつよいテーマ」には、ながらく関心を向けられなかったのだと思う。

だが、世の中はますます悪くなっており、もはや「労働現場のリアル」を知らずして「大所高所」も「本質主義」もへったくれもないという状勢が見えてきたので、すこしは「他の現場」も知ろうと「労働問題」関係の本を手に取るようにもなってきたのだ(それにしては、本書はまだまだ「本質主義」的ではないかと言われそうだが、「現場の声」系の本も買ってあるからご安心を)。

さて、前置きが長くなったが、端的にこれは、本書が「面白くなかった」と評価するために必要な、前説であった。
ただ貶すだけ、「面白くなかった」のひと言で済ますだけでは著者に失礼なので、私がどういう人間かを説明した上で、面白くなかった理由を書こうと考えたためである。

本書に教えられることは決して少なくなく、そこで語られていること自体に、ほとんど異論は無い。と言うか、異論を持てるほど、私は「現代日本における労働現場の問題」にも「ラカン派精神分析」にも詳しくないので、そういうものだと言われれば、なるほどさもあろうと素直に納得してしまうのだ。
だが、専門家の著者ほどではないにしても、私は「社会学」や「精神分析」の本ならそれなりに読んでいるし、当然のことながら、著者が読んでいないような本をたくさん読んでいる。また、いくら私が変人の極楽トンボだとは言っても、学者ではなく、平凡な労働者の一人ではあるから、著者よりは「労働現場のリアル」を体験してもいるはずだ。
無論、学者とて労働者だし、大学とて営利企業だから、そこに「労働現場のリアル」が無いとは言わないのだけれど、私が本書で引っかかったのは、著者の「文体」には、「労働者のリアル」が希薄で、いかにも「学者が学者向けに書いた文章」でしかない、という印象を強く受けた点なのである。

著者は、現在、世界的にひろく利用されている疾病診断基準「DSM−3」の問題を扱う第7章において、疾病を症状で分類して統一的な対処を求める「DSM−3」が、表面化しない部分、つまり「無意識」の部分を扱う「精神分析」を排除し、お払い箱にしようとしており、「DSM−3」におけるそうした傾向性は、人間を物として合理的処理しようとする、人間疎外的なものであり、多くの危険性と問題を孕んでいる、と批判している。

この指摘や批判は、いかにももっともなことなのだが、しかし、私が引っかかるのは、「労働者」や「人間」に寄り添うことの必要性を何度となく説く著者の文体が、まったく「労働者」や「人間」に寄り添う態のものではなく、きわめて「エリート」的に「趣味的」なものだと感じられる点なのである。

私も似たようなものだから、偉そうには言えないのだけれど、しかし、少なくとも(公にむけて)文章を書く場合には、読者層を意識して、その読者へ届くように書くという配慮は、当然のこととして行なっている。ところが本書には、そういう「一般読者」を意識した配慮があまりにも欠けていて不親切であり、いっそ「学者向け」と割り切っているのかと疑いたくもなるようなものとなっているのだ。一一だが、本書は「一般書」として売られているのである。

ということは、やはり本書の「文体」は、著者の「エリート趣味」をそのまま正直に反映しているものと見るのが至当なのではないか。
そして、著者自身が次のように正直に書いていることが、本書の難点、著者の問題点なのではないかと、疑われるのである。

『 私のように、学部時代は文学部(近現代日本文学を研究)で、文学といえばアンチ社会的な領域だと自認もしていた者にとっては、生きづらいというよりデフォルトとして社会とは相入れづらく(確信犯な分、精神的には居直っていて強かったかも。さらには、「雇用均等法以前」という女子にとってもきつい環境だったか。つまり私は最初から「規格外」だった。なので文系女子にとって進路は教員くらいしかなかった)、いまいち、(※ 担当編集者の提示した)労働というテーマはピンとこなかった。が、先に見たように、前世代の雇用労働社会が安定的にあった社会が崩れたことによる困難が現代社会にあることを、若い世代の彼(※ 担当編集者)から実感を通して突きつけられていると感じた。』(239〜240P)

つまり、著者は「リアルな労働現場から距離をおいた存在」で、もともと「趣味人的に反社会的なスタンス=デゼッサント的スタンス」を持っている、私とも似たところのある人間だった、と一応はそう言えよう。
だが、同じ「アンチ社会的」と言っても、著者の場合は「文学は、社会とは縁も所縁もなくていい独立世界」だという、昔よくあった「プロレタリア文学は、邪道の文学」的な感覚の「アンチ社会」であり、私の「アンチ社会」は「文学は、その人間への興味において、社会的リアリズムに対抗しうる原理である」といった「社会との対抗関係」を認めるものであった。言い変えれば、本書著者の場合は「社会から切れる、脱俗」であり、私の場合は「社会と切り結ぶ、反俗」であったのではないだろうか。

だから、私には、本書著者の「文体」が、「労働者」や「人間」に本気で寄り添うことのない、「学者」的「エリート」のそれと感じられ、そこに反発する以前に、「響かない」「物足りない」と感じたのではないかと思えるのだ。

本書にまとめられた論考の多くが、『現代思想』という、知的エリートまたは思想オタクのための雑誌に書かれたものであってみれば、そうしたものに無縁の一般人たる「労働者」読者に十分な配慮のなかったことは、ある程度は仕方がないとも思える。しかし、単行本化にあたっても、特段の配慮はなかったとしか見えないところに、著者に本質的な、古風なまでの「象牙の塔的センス」を見ないわけにはいかない。
じっさい、担当編集者に「労働」というテーマを提示されるまでもなく、社会学者として、まともに「労働現場のリアル」に興味を持っていれば、いまさら『前世代の雇用労働社会が安定的にあった社会が崩れたことによる困難が現代社会にあることを、若い世代の彼(※ 担当編集者)から実感を通して突きつけられていると感じた。』というような、薄っぺらい文句で、対外アリバイ的に自身のモチベーションのかたちを整える必要もなかったのではないだろうか。

初出:2020年4月14日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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