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《長編小説》小幡さんの初恋 第三十回:小幡さんの同級生

 さてそれから日は流れて木曜日になった。朝鈴木はいつも通り事務所に入り、近くにいる従業員たちに挨拶をしながら自分の席へと進んだのだが、席の近くに何人か人が集まっていて妙に盛り上がっていた。それで鈴木は何事かとそこに近寄ると、なんと小幡さんがあのカメのような制服を着ておらず、白のシャツとジーンズという非常にラフな格好だったのだ。自分が会社に入ってこの二年間、小幡さんが事務所に普段着で来た事は一度もない。他の連中もそれが珍しかったのか、小幡さんに今日はどういう風の吹き回しだとかいろいろ尋ねていた。小幡さんはそれらのからかいにウンザリしていたようだった。

「ちょっとみんな私が普段着で来たからって騒ぎすぎじゃないですかぁ。昨日も話したけど私今日は友達と同窓会があるんです。終わったらすぐ行かなきゃいけないなら普通のカッコで来たのに」

「へぇ、前も飲み会あるとかで仕事終わった途端に帰っちゃったことありましたけど、あの時は制服だったじゃないですか?」

「もうやめてくださいよ。なんで私をそういじめるんですかぁ?」

 この小幡さんの言葉を聞いて従業員は笑いながら去っていった。鈴木は人が捌けると自分の席まで歩いて小幡さんに挨拶をした。すると小幡さんは怒った顔で鈴木にみんながいじめると訴えた。

「ちょっと鈴木さん、全くみんな酷いんですよ。私が普段着来てきただけなのに、デートですかなんて平気で聞いてきたりして。これってセクハラですよね。ホントにみんな私が人事担当だって事忘れてるのかしら」

 鈴木は小幡さんを少し気の毒だと思った。しかしそれと同時にみんな驚くのも無理はないと思った。何故なら小幡さんといえばあの亀のような制服だからだ。たまに外で普段着の小幡さんを見かけても制服姿がちらつくほど、あの亀みたいな制服と小幡さんは分かち難く結びついているのだから。

「いや、それはお気の毒様」

「なにその他人事みたいなセリフ。いや、確かに他人ですけどもうちょっと何か言いようがあるんじゃないですか?」

 今までこういう風に小幡さんがこういう風に思った事をストレートに言うことはなかった。小幡さんは明らかにあの月曜日から変わり始めていた。

「ちょっと鈴木さん聞いてますぁ?」

「ああ!聞いてるよ。すまないすまない!」

「はぁ、こんなにみんなから揶揄われるんなら着てこなきゃよかったなぁ」

 小幡さんはそう言って笑った。鈴木はその笑いがなんだか自分に含みがあると思えて仕方がなかった。彼は自分の良からぬ勘ぐりを戒めるためにいつものいかんいかんをやろうとしたが、その時向かいの楢崎さんとまともに顔を合わせてしまった。楢崎さんは目を剥いて自分と小幡さんを交互にガン見していた。

 昼休みに鈴木はいつものように一人で公園で休憩をとっていたが、その間やたら小幡さんの事がチラついた。今日彼女は小学生時代の友達の結婚を祝して飲み会をするという。別に大した事ではなく、全くの他人である自分が下手な詮索をすべき事ではないが、どうしても気になってしまう。その飲み会は女子だけなのだろうか。それとも男も混じっているのか。小幡さんから男性の影など全く想像できない。しかも彼女はあの晩……。と、ここまで考えたところで鈴木は頭を思いっきり左右に振った。いや、いかんいかん、これではまるで小幡さんのストーカーみたいではないか。こんな事を考えてばかりいたら勘のいい彼女にきっと気取られてしまう。鈴木は邪念を断ち切ろうとして空を見上げた。全く人を過剰に後ろめたくさせるぐらいのいい天気だ。明日からはゴールデンウィークに入る。天気予報ではその間ずっと快晴らしい。小幡さんは昼休みのベルが鳴るとまっすぐ家に帰った。きっと今頃は今夜の飲み会の準備をしているのだろう。

 夕方になり、終業時間が近づいてくると、外回りの連中が次々と戻ってきた。それを見た小幡さんは鈴木に向かってじゃあ後はお願いしますと声をかけた。鈴木は分かったとうなずくと、皆に向かって日報の提出を呼び掛けた。しかし誰も鈴木の言葉を聞いておらず、好き勝手にくっちゃべったり、勝手に帰ろうとしたりしていた。あの時はみんなおとなしく自分の指示に従ったのに、どうして今回は誰も聞いてくれないのか。

 彼は隣の小幡さんに助けを求めようと隣を見たが、彼女はいつのまにか消えてしまっていた。なので鈴木はもう一度皆に呼びかけるしかなかった。すると今週外回りデビューした新入社員の丸山君が日報を持ってトレーに入れてくれたではないか。丸山君は日報を事務所の中央に備えられている日報回収用のトレーに入れて鈴木に向かって一礼してきた。すると丸山君の行動を見た何人かが慌てて自分の机で日報を書き始めた。しかしその他の人間は我関せずと各々帰り支度をし始めた。鈴木はこの状況をみて小幡さんが毎日どれほど大変な事をしていたか、二度目にして身をもって知った。いつも毎日大声で日報の提出を呼びかけている小幡さんを大変そうだなと気の毒に思いながら見ていたが、実際にはそれ以上の大変さで彼女に対して本当に申し訳なく思った。鈴木は提出用のトレーの前に立つとさっきよりはるかに声を張り上げて日報の提出を求めた。

「皆さん、今日はゴールデンウィーク前なのでご帰宅の前に必ず日報の提出をお願いします!」

 しばらくするとどこかに行っていた小幡さんが自分の日報を片手に戻ってきた。

「あっ、鈴木さん。外出していてごめんなさい。ちょっと友達に電話していて……あの、日報の提出お一人で大丈夫ですか?私も時間までお手伝いしますけど」

「いや、なんとか大丈夫さ。だけど小幡さん、いつもこんな大変なことやってたんだね。なんだか申し訳ない気分になってきたよ」

「私こそ申し訳ない気分でいっぱいです。ホントにここの人たちはどうして日報の提出が満足に出来ないんだろう。自分の給料に関わってくるのに!」

「多分忙しすぎて日報まで頭が回らないんじゃないかな。とにかく後は僕が引き受けるから、あなたは同窓会を楽しんできなさい」

「はい、わかりました!言いつけ通りにいたします!」

 小幡さんは笑顔でハッキリとこう答えると自身の日報をトレーに差し込んで事務所を出て行った。鈴木は彼女の去り行く後ろ姿を見て妙に嬉しくなった。彼女ともしばらくお別れだ。

 従業員が大体捌けたのをみて鈴木はトレーから日報を取り出して自席に持って行った。そしてチェックの前に事務所を見渡すとまだ丸山君が残っているではないか。鈴木は驚いて丸山君に呼びかけた。

「丸山君まだ残っていたのか。どうしたのかね?」

「あ、あの鈴木さん手伝いましょうか?今日は小幡さんもいないしお一人じゃ大変だなと思いまして……。あっ残業代とかは大丈夫です。もうタイムカード押しちゃったし」

「いやそりゃ尚更ダメだよ。うちは無給で残業なんかやってないんだから。君は早くうちに帰りなさい」

「はぁ、でも……」

「でもじゃないよ。君は一週間ぶっ続けで外を回っていたじゃないか。これ以上体を酷使したらいかん。で、どうだった?外回りももう慣れたかね?」

「いや、慣れたも何も岡本さんについて行っているだけですし、その岡本さんも仕事放ったらかしにしてお客さんと延々と喋っていますし、果ては車で寝るから時間になったら起こせとか言い出すしこれで大丈夫なのかなぁって思って……」

 鈴木は丸山君の話を聞いてあまりの正直さに青くなり大人として今年成人式を迎える彼に忠告を与えねばと思った。

「あの、丸山君に社会人とは口に出すべきものと、出すべきでないものがある。素直なのは結構だがら君も今年で成人だ。成人として、社会人としてその事を理解するように」

 丸山君は鈴木の忠告にはいと大きな声で返事をしたが、わかったのかわからなかったのかよくわからない反応だった。それで改めて再度説明しようとしたらそこに社長の太郎が事務所に入ってきた。社長は丸山君がまだ事務所にいるのを見て、鈴木さんが好きなのはわかるが、迷惑になってるから帰れと軽く叱った。丸山君は申し訳ありませんと鈴木と社長に謝り失礼しますと急いで事務所から出て行った。

 事務所から出ていく丸山君を見送った後、社長が鈴木におひとりで大丈夫ですかと声をかけてきた。鈴木は大丈夫ですと答えたが、社長はその鈴木の返事を聞くと目を細めてこう語り始めた。

「いやぁ、うちの会社って鈴木さんから見たら凄い特殊でしょう。従業員の殆どが近所の人間で他県から通っている人間は一人もいない。こちらも別に他県の人間をはじいているわけじゃないんですが、どうしても顔見知りの人間を優先的に採用してしまうんですね。まぁやっぱり地元の人間の方が、契約とりやすいですからね。あの丸山を雇ったのもそれが理由ですよ。アイツは赤ん坊の頃からの顔見知りですから。それにこの土地に住んでる人間は大学入っても東京の会社に入ってもなかなか地元から出て行かないんですよ。まぁ、土地は安いし、その割に東京に近いし、ベッドタウンとしてならこれ以上いい場所はないですよ。だから一旦東京に出て行った人間の中にも帰ってきてここに家を構える人間もいる。例えば小幡さんのように」

 社長の口からその名が出たので鈴木はふと昼間のように小幡さんのことを思い浮かべた。きっと社長なら彼女の友達について知っているはず。鈴木はなるほどと感慨深げに相槌を打つと、それとなく、いかにも話のついでにといった調子で小幡さんの同窓会のことを持ち出した。

「あれ?鈴木さん、小幡さんのことそんなに興味があるんですか?」

 こう話す社長の含みのあり気な顔を見て鈴木は自分の意図を見透かされていると感じた。

「いや、なんとなくですよ。小幡さんから今日結婚する友達たちと同窓会をやるって聞いたから……」

「それでその友達がどんな人間なのか知りたいと」

 ズバリと自分の考えを指摘されて鈴木は目をぱちくりさせた。社長はその鈴木を見て言った。

「はっはっは、鈴木さんにとって小幡さんは大事な娘みたいなものですからね。そりゃ心配でしょう。だけど安心してください。私は彼女の友達をみんな知ってますから。今日は小幡さんたちは近々結婚する佐藤君っていう子のお祝いをやるんですよ」

「佐藤君?」

 鈴木は佐藤なる見知らぬ名前を聞いて思わず固まった。あの男の影が全くなさそうな、いやあの夜酔った勢いではっきりと男性経験はないと言った小幡さんに男の親友がいたとは。しかも名前が佐藤なんて。これは自分への当てつけかなにかか。すみにおけぬ。ふとこんな時代劇めいた台詞が浮かんできた。まるで自分が悪代官で、小幡さんが自分をだます暴れん坊将軍の配下の忍びのようだ。全くすみにおけぬ。

「そう佐藤君。彼はあの男には縁のない小幡さんが唯一親しくしていた男の子でね。小学校を卒業してからも度々あってたみたい」

 小幡さんが佐藤なる男と親密な関係にあったと聞いて鈴木は心底動揺した。では彼女はその佐藤なる男と今までずっと会っていたということか。鈴木はただの同僚の過去を知って取り乱すのはあまりにも馬鹿げていると自分を戒めたが、それでも動揺は収まらなかった。

「その佐藤君の結婚相手が凄いんですよ。なんでも財界のエリートの家系らしくて佐藤君の両親なんかどうしようなんて母のところに相談に来てねえ。……あれっ、鈴木さんどうしたんですか?顔青いですよ」

「い、いえ大丈夫です!気になさらないでください」


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