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《連載小説》BE MY BABY 第十二話:伝説の武道館ライブ その1

第十一話 目次 第十三話

 同じ頃、照山はライブ前の音響チェックを終えて今はトイレでライブに不必要なものを全て出すために全身を集中させていた。ライブには美月が来る。自分はその美月のために歌い弾くだろう。大歓声の中で彼女のところまで自分の歌が届くだろうか。そう考えて彼はふと自分は美月のために他のファンを蔑ろにしていないかと思った。先程照山は美月にやっと会えることに興奮してLINEに今日は美月のために歌うと書いた。だがそれでよかったのか。自分はRain dropsなんだぞ。Rain dropsの歌は全てのファンに届けるべきじゃないのか。彼は沸々と湧いてきた疑念に答えを見出すために必死に自問自答した。美月一人のために歌うか、それとも彼女を含めたファン全員のために歌うか。彼は自問自答の果てにこんな答えを見つけた。美月をはじめとする全てのファンのために歌う。これが照山の出した答えであった。美月は典型的なRain dropsファンだった。女優である前に一人の悩めるか弱い女の子であった。その彼女をはじめとするファンのために僕は歌う。照山はそう自分に言い聞かせてトイレの扉を開けた。すると目の前にいたローディらしき男がトイレから出てきたのが照山だと気づかず、その去り行く後ろ姿に向かって思いっきり怒鳴りつけた。

「おい、いつまでもクソしてんじゃねえよこのボケ!ほら見ろ、俺のウンコ全部タイルに漏らしちまったじゃねえか!」

 楽屋に戻るとすでにライブの準備を済ませていたメンバーが一斉に立ち上がって彼に声をかけてきた。

「おい、遅いぞ照山!あんまり戻って来ねえからお前を探しに行くところだったぜ!」

 ギタリストの有神がそう言いながら照山の頭を叩いた。照山は照れて頭を掻きながらトイレで踏ん張って精神集中していたのさと答えた。メンバーは照山の滅多に言わない冗談に大笑いし全員で彼の頭を叩いてツッコミを入れた。そしてみんなの笑いがおさまったのを見て真剣な顔で言った。

「今日僕らの記念すべき初の武道館ライブだ。ファンのために命懸けでやろう!ファンの心にRain dropsの名を刻みつけるんだ!」

 照山の言葉にメンバーは喊声を上げて答えた。もう少しでライブは開演する。Rain dropsのメンバーは楽屋を出てステージへと向かう。照山は今運命の扉の前に立っていた。もう少しで扉は開くそこに入ったらもう少年時代の自分には帰れない。だがそれでもいい。僕は美月玲奈にすべてを捧げることに決めたんだから。その照山の心情を察したのか突然スマホが鳴った。照山は美月のメッセージをそこに見た。美月さんが今僕に逢いにくる。彼は心臓の鼓動の高まりを感じながらライブを待った。

 美月を乗せたタクシーは渋滞に巻き込まれ、会場に着い時にはすでに開場時間が過ぎていた。彼女タクシーの運転手に料金を払いすぐに武道館へ向かおうとしたが、なぜかタクシーの運転手が彼女を引き止めた。美月は料金は車の中で払ったじゃないと訝しんだが、なんとタクシーの運転手はにこやかに色紙を出してサインをねだってきた。

「あなた美月玲奈さんでしょ?いつもテレビで観てますよ。私の息子があなたのファンでしてねぇ。息子のためにサインくださいよ!」

 美月は今どういう状況かわかっているのかとタクシー運転手を車に縛り付けアクセル踏ませてどこかにぶつけてやりたかったが、元々人のいい美月はそんなことはできず笑顔でサインに応じた。それが済むと彼女は全速力で武道館へと駆け出した。彼女は帽子もマスクもつけず、顔を晒してただただ武道館へと走った。彼女の頭の中にはRain dropsの『少年だった』がエンドレスで鳴り響いていた。少年だった、少年だった。美月は曲の疾走感に負けじとひたすら武道館へと走った。Rain dropsを求めて武道館まで必死に走る彼女は女優美月玲奈ではなくただの一人の女の子であった。そう彼らの代表曲『すべての悲しい女の子たちへ』の曲で歌われるような。

 武道館でチケットの確認が終わると会場のスタッフはすぐに美月を中に入れた。スタッフはきっと汗だくで武道館に現れた人気女優を見てビックリしただろう。そりゃ確かにRain dropsは今注目の的だし芸能人だってライブにくるだろう。だけどこんな汗だくで息を上らせてライブに来る芸能人なんて見るのは初めてだ。

 美月は会場へと続く扉を前にして震えた。彼女のために会場のスタッフは扉を開けてくれたが、その瞬間馴染みの曲のイントロのパーカッションが地響きと共に流れてきた。『BE MY BABY』である。美月はこの偶然に目頭が熱くなった。しばし歓喜にに咽んで立ち尽くしていた美月をスタッフが中に入るように促した。もう少しでライブが始まるのだ。

 チケットに載っている壁際の自分の座席を見つけた美月はそこからステージを見て結構距離があるのに愕然となった。ライブのホームページの座席表を見て確かにあまりいい席じゃない事はわかっていたが、こうして実際にライブ会場に来てみるとそれがあからさまにわかるので悔しくなった。だが彼女はこうしてライブに来れた事がすでに奇跡なのだと自分を戒めた。

 美月は席に座り隣の客に軽く挨拶したが、隣の客は彼女を見てなんで人気俳優がこんな端っこの席にきてるんだと訝しげに見た。SEはまだ続いていた。会場から次々と断片的に曲が流れていたが、それはすべて照山から教えてもらった曲だった。ビートルズの『アンド・アイ・ラヴ・ハー』、ドアーズの『インディアン・サマー』、エルヴィス・コステロの『アリスン』、スミスの『ハンド・イン・グローブ』。どれもラブソングだった。美月はそれに気づいて思わず涙を流した。隣の客もまた泣いていた。彼女たちだけでなく会場のあちらこちらで啜り泣きの声が聞こえた。その涙に何よりもファンがどれほどライブを待ちわびていたかを語っていた。だが美月は涙を拭いてまっすぐ無人のステージを見つめた。まだ照山は来ない。だけど彼の息遣いはかすかに感じられる。しばらくしてそれまで人がいなかったステージに人が現れた。もうすぐ照山くんに会えると美月が思った瞬間、突如SEが消え暗闇のステージにライトが灯った。それを見たファンは一斉にステージに向かって叫んだ。美月もまた同じように叫んだ。

 ナレーションが機械的にライブの際の注意事項をアナウンスしたが、会場は誰も聞いていなかった。あるファンなど毎度のアナウンスに腹が立ったのか、「いちいちうるさいわよ!私たちがRain dropsのためにどんだけ注意を守ってると思ってるのよ!」と抗議した。その声に呼応して他のファンも「そんなことより早く照山くんを出して!」と叫びこれに火をつけられたのか会場から照山コールが鳴り響いた。「照山!照山!照山!」美月はさすがに常識をわきまえてこのコールに参加しなかったが、だが衝動を抑えきれず、気づけば会場内で一番声を出していた。美月は照山をおもっきり呼べばすぐに彼が駆けつけてくるものと思った。来て照山くん!私ここにいるよ!間もなくしてステージは再び暗くなった。それと同時にコールも止んだ。もうすぐ始まる。観客は固唾を飲んでRain dropsの登場を待った。

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