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巡る思考

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#哲学

顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい

顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい

よく都内のビルの狭間にある心ばかりの小さな公園で行われるようなマルシェだと「作り手の顔が見えるマーケット」だとか、スーパーの生鮮食品コーナーでは「生産者さんの声」といった”作り手(生産側)”に目を向けようとする動きがある。

生産と消費が遠すぎる現代において、それらは意味のある動きだとは思うけれど、それでも、そういった”生産と消費を縮めようとするような動き”が現れてから数年経つが、実際の所はという

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はじめから正解の選択肢はないとおもう

はじめから正解の選択肢はないとおもう

過去の自分は、いわゆる"正解"の選択肢だとわかってから、選択することが多かったと思う。

けれど、今の私は、前のように「これでしょ!」という直感的な正解がない。

そして、現代に生きていると、とかく早く答えが欲しくなる。
あらゆるものが工業化した資本主義社会では、何もかもが効率化して、様々な商品やサービスにコストパフォーマンスをつい求めてしまう。そんな社会では、失敗するゆとりだったり、心の余白は意

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"幸福な人生"に取り憑かれた現代人

"幸福な人生"に取り憑かれた現代人

前向きに考えよう
ポジティブになろう
幸せになるために

など、生きることに前向きである姿勢を啓蒙するような活動全てこれらを"ポジティブキャンペーン"と私は呼んでいる。

ポジティブキャンペーンが過ぎる世の中だと思う。
書店は、「人がいかに幸せでいられるか」ということをテーマにした本で溢れ返っている。

幸せを求めるのは当然だと思うけれど、過剰すぎる様に視える。
過剰に求めすぎている人の多い様子が

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退屈と孤独は、よく似ている

退屈と孤独は、よく似ている

退屈だから、孤独になるのだろうか?
孤独だから、退屈になるのだろうか?

そんなことを、ふと思った。



私自身は、今まであまり「退屈」を感じたことが少なかった。

大抵の場合は、「"孤独"を感じている」と思っていた。

──しかし、この2つはどこか似ている。

意味を調べてみた。



私には、現代においてこの2つは、とても似てるように見える。私だけだろうか?
「退屈≒孤独」だと感

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何者でもなくなるということ

何者でもなくなるということ

時折、こんな問を自問している人を見かけることがある。

「もし、手足がなくなったら自分のことを愛せるだろうか?」
「もし、自分が何者でなくなっても恋人は自分を好きなのだろうか?」
「もし、今の肩書や地位を含め何者でもなくなったら自分を愛せるのか?」

その人は、こういったことを脳内でシミュレーションしてみていた。

何者でもなくなった私から言えば、その問の答えは、「そうなってみないとわからない」だ

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