なつな

1995年生まれ│世界を捉えなおすために書くノンフィクション

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やりたいことも夢も仲間も失った虚無の果てに残ったのは、諦めの悪い自分だけ

年明けから、いくらか日が経って、気持ちも少し落ち着いてきたので、書こう書こうと思ってかけていなかったことをnoteに綴っていけたら、と思う。 そして、これを読む方で必要な人に、自分の指針のようなこの歌の歌詞にある言葉が誰かの心に届いたら良いなと思う。 私の人生は、一度終わっているここで言う"人生が、一度終わっている"の意味合いは、 「人生の意味とか、生きている意味とか、そういうものがすっかりと抜け落ちた生の営みになった。」 もしくは 「心に決めた何かに向かっていたはずの自

    • ずっと忘れられなかった初恋の人が、親友になった日

      最近まで、ものすごく辛い別れと、ものすごく胸の高ぶりを感じる歓びの両方が、同時期に自分の中で起こっていた。 この時期は、出逢いと別れの季節だとはよく言われているけれど、今年は本当に、人生で上位の大きな変化のあった季節だった。 春を待つ冬の終わりに、9年前に人生で初めて付き合った人と、二度目のお別れをした。 過去に一度喧嘩別れを繰り返した初恋のひでさんと、再会して一緒に住んだ。 その彼と二度目のお別れの時に、別れ際のギリギリまですったもんだありながらも、今のパートナーの理

      • 自殺を止めるには、どうしたら良いのかずっとわからないまま

        この無力感と、しばらくの間闘っている気がする。 ・19才の頃に初めて付き合った元彼 ・2つ上の現在30才の姉 とても身近で、とても大切な二人の命の危険を感じたことがある。 「彼らが自死を選択しようとしたのは自分のせいだ」 「彼らが精神不安定になったのは自分のせいだ」 そんな自責の念で、自分の心が潰れそうになり疲弊してしまったことがある。 今も尚、その苦しみからは逃れられていないなと思う。 ついはずみで言ってしまった言葉に対し、精神が不安定な中で感情的になってしまった

        • 世界は正直どうでも良くて、一番大事なのは自分の願い

          社会や世界がどうなろうと、正直どうだって良いと思っている自分がいるなぁと、何てことのない日々の中でつくづく思う。 「私が私として生きた結果、変わったら良いんじゃないかな」とは思うけど、実際には、自分の願いさえ叶えば何だっていいなと思う。 自分自身が大切に思うことを守れたり、在りたい自分でいられたり、大切な人やものが大切にさえできていれば、あとは実際何でも良いなぁと思う。 特に、感情が動かず能動的になれないことに関しては、私の人生には関係ないなと思っている私がいる。

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        やりたいことも夢も仲間も失った虚無の果てに残ったのは、諦めの悪い自分だけ

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          120本
        • 人生
          18本
        • 世界をとらえるために
          3本
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          1本
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          10本
        • 巡る思考
          7本

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          やっと、無数の点が線で繋がりそう

          "御縁"という言葉は、本当に魔法みたいで 奇跡のような巡り合わせで生じた御縁や、再び繋がった御縁、袖振り合うも多生の縁…… ここ最近の1-3年ほど、人との繋がりにおいて、"御縁"を感じることがかなり増えてきた。 その"御縁"を感じるたびに もう、本当に、今までどれだけの人と出逢って、助け助けられ、自分という人間がこれほどまでに一人で生きてきてはいなかったかということを思い知らされた。 "出逢いに生かされてきた" そう表現するのが本当に的確に感じるくらい、苦しかった

          やっと、無数の点が線で繋がりそう

          顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい

          よく都内のビルの狭間にある心ばかりの小さな公園で行われるようなマルシェだと「作り手の顔が見えるマーケット」だとか、スーパーの生鮮食品コーナーでは「生産者さんの声」といった”作り手(生産側)”に目を向けようとする動きがある。 生産と消費が遠すぎる現代において、それらは意味のある動きだとは思うけれど、それでも、そういった”生産と消費を縮めようとするような動き”が現れてから数年経つが、実際の所はというと、未だに生産と消費の距離は縮まっていないように感じる。 未だに、どこの誰が作

          顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい

          はじめから正解の選択肢はないとおもう

          過去の自分は、いわゆる"正解"の選択肢だとわかってから、選択することが多かったと思う。 けれど、今の私は、前のように「これでしょ!」という直感的な正解がない。 そして、現代に生きていると、とかく早く答えが欲しくなる。 あらゆるものが工業化した資本主義社会では、何もかもが効率化して、様々な商品やサービスにコストパフォーマンスをつい求めてしまう。そんな社会では、失敗するゆとりだったり、心の余白は意識しないと取りづらいよなあと感じる。 そういう社会がベースにあるから、私たちは

          はじめから正解の選択肢はないとおもう

          欲しいと願ってる内は、手に入らないことと同じだから

          この歌詞が、初めてこの曲を聴いた時から、ずっと引っかかっていた。特に「ずっと叶えたかった夢が、貴方を縛っていないだろうか。」という所。 きっと、図星だったから引っかかっていたのだと思う。 そして、 「なぜ諦めて、本当に欲しかったものを捨てようとしているのだろう」と考えていて、一年ほどわからなかった。 けれど、今日その意味がわかったような気がしたので、少しnoteに書き残しておこうかと思った。 … 「なぜ諦めて、本当に欲しかったものを捨てようとしているのだろう」の問の結

          欲しいと願ってる内は、手に入らないことと同じだから

          終わらない痛みは、この世に無い

          痛みが終わる訳がないと感じていた 生きる指針がハッキリと見えていた頃から、急に生きる指針の片鱗もみえなくなり、窮地に立たされたときがあった。 その時は、自分を責めに責めて、過去の積もりに積もった類の、ぶり返す痛みとひたすらに向き合っていたとても長い時期があった。 もう、幼少の頃からの積もりに積もった今更収集がつかない、どれが何かも、自分でももはやよくわからないような痛みが積もっていた。 とうに思い出さず、無いことにしてきた記憶もあったから尚更に。 けれど、自分でも自

          終わらない痛みは、この世に無い

          変わっていくもの、変わらないもの

          目まぐるしく変わっていく日々の中 少しずつ何かが欠けたり足されたりして 変わり続けているはずの日常において 変わってきたものと変わらないものがあって この風景とか友達といるときの自分や 友達は変わらないよなとか そんなことを思った。 最近起きたことと 昨日のお祭りに行ったからか いつかの子供の頃のことを 気づいたら書いていた。 … 埼玉県の片田舎である飯能に越してきたのは、 祖父母が居るからだった。 けれど、予定より早めに 東京から飯能に越した。 早まったのは、 姉が東

          変わっていくもの、変わらないもの

          私が思う優しさが、誰かにとっては破壊的でも貫きたい

          かなり昔からのことなのだけど、自分の思う優しさが優しさとして伝わらないことが多々あった。 伝わることもあるが、肝心な重要なときに伝わらないという体験は多かった。 私は、自分自身に誠実であることが優しさだと表現は異なれど、感覚的には昔からそう思っている。 自分の心根に正直であることが誠実さであり、それはたとえ誰かにとって傷になるものでも、耳の痛いことでも、自分自身への誠実さのほうが大切だと、自分の実体験からしても心からそう思う。 (もっとも、昔の私は他人を傷つけることを避

          私が思う優しさが、誰かにとっては破壊的でも貫きたい

          "幸福な人生"に取り憑かれた現代人

          前向きに考えよう ポジティブになろう 幸せになるために など、生きることに前向きである姿勢を啓蒙するような活動全てこれらを"ポジティブキャンペーン"と私は呼んでいる。 ポジティブキャンペーンが過ぎる世の中だと思う。 書店は、「人がいかに幸せでいられるか」ということをテーマにした本で溢れ返っている。 幸せを求めるのは当然だと思うけれど、過剰すぎる様に視える。 過剰に求めすぎている人の多い様子が、多くの人が幸せの意を履き違えてるように視える。 幸福なことだけを求める人ばか

          "幸福な人生"に取り憑かれた現代人

          早く、人間が人間らしく安寧に生きる為に #データサイエンス

          振り返ると、あまり生きた心地がしなかった生がしばらく続いた。(今も若干残っているのだけど) その時は、戸籍はあるから”生きていることになっているはず”なのに、生きているという実感がなかった。 もっとも、生きていて基本的に「生きていたくない≒生きている実感がない」だったのだと思う。 どちらも共通しているのは、生きていたかった自分が生きていられなくなる度に、強くそう感じてきたということだった。(重なった転校やいじめや、会社のチーム解散等) … 人らしさ この社会を視てい

          早く、人間が人間らしく安寧に生きる為に #データサイエンス

          信じられる世界を失くした果に出逢えた、もう一人の私

          約3年前に逢った彼女は、 私が知る人の誰よりも強くて、 誰よりも弱いと感じる人だった。 たまたまお互いに物凄く弱い面と物凄く強い面の両方を知ることができた、という言い方が正確かもしれない。 誰もが併せ持つような”至極弱い部分”と”至極強い部分”をたまたま視ることができた世界線にいたのだと思う。 彼女のお陰で、何かを信じられる私が創られたように感じる。 彼女に逢ってから、世界の視え方が本当に変わった。昨日までは月だと思ってたものが、実は太陽だったぐらいに世界が違って視えた

          信じられる世界を失くした果に出逢えた、もう一人の私

          絶望を抱きながら、希望を携えている

          なんか、今の私は、以前のようには働く気力が全然沸かなくなっていた。 正確に言えば、今のような働き方では、という意味合いなんだろうけど。 結局のところ、やっぱり楽しいのは友達とああでもないこうでもないと悩みながらも何かに向かっている時とか、会社でも友達(上司)とああでもないこうでもない、とプロダクトを創っていたときだなと思う。 目標は忘れずに向かう所へは向かい、同時に試行錯誤して楽しんでいたとき。 あの感覚が一番楽しかった気がする。 人生の局所でその体験をしている。 城

          絶望を抱きながら、希望を携えている

          バランスの悪いSNSの心地悪さ

          ずっと前から自分の中にあった心地悪さだけれど、最近それが何だかハッキリしてきたので、書いておきたい。 ”不特定多数に向けて発信する” これが大前提に作られるSNSが多いので、ユーザーも当然のようにそのような使い方をする場合が多い。 でも、自分の中ではそのこと自体にずっと納得感が無く、LINEとほとんど同じ感覚で使っていて、友達にシェアしようくらいの感覚だった。故に、よく知らない人には知ってほしくないという気持ちが心地悪さだったのかもしれない。 … 心地良い関係性 「

          バランスの悪いSNSの心地悪さ