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終わらない痛みは、この世に無い



痛みが終わる訳がないと感じていた

生きる指針がハッキリと見えていた頃から、急に生きる指針の片鱗もみえなくなり、窮地に立たされたときがあった。

その時は、自分を責めに責めて、過去の積もりに積もった類の、ぶり返す痛みとひたすらに向き合っていたとても長い時期があった。
もう、幼少の頃からの積もりに積もった今更収集がつかない、どれが何かも、自分でももはやよくわからないような痛みが積もっていた。

とうに思い出さず、無いことにしてきた記憶もあったから尚更に。

けれど、自分でも自覚できなかった過去の痛みが、今の私を苦しめる時があって、その痛みは終わらないと思っていた。
ここで指している"痛み"とは、いわゆる過去のトラウマが、現在の少し似た場面で自動的に脳内で再び思い出される、というものだった。

死ぬまで、この胸の痛みが繰り返されて続くと思った。
気を抜くと、そんな思念が頭のどこかにあった。
「痛みが終わるわけがない」と心からそう感じていた。
けれど、

「どんな痛みも、いつかは必ず終わる。」

この繰り返されてきた痛みが終わってみて、今の私の中にある真実はこれだった。

慣れると、感情や痛みを感じる自分ごと俯瞰できるようになる。
そして、痛みや感情扱い方が段々とわかってくる。回数を重ねれば、人は学び、次に繋げる。

終わらなかった間は、あんな必死だったのに、
終わってみると、呆気なく感じることもある。

痛みを抱えていた生きづらくて生きていたくなかった私がこれを聴いても、きっと信じられない。

諸説あるとは思うが、人を含む生物の生命(いのち)が進化を重ねてきた背景の、大きな要因の一つに環境適応がある。
もっと言うと、環境適応として自らを破壊することで変化を促していく作用がこの"生命"というリレーを繋げてきたと言われている。(過去に、「最後の講義」という生物学者の本で読んだ)

生き物は、いずれどんな環境でも慣れる。
初めはどれだけ心地悪いものであっても、そこで時間を過ごせば慣れ、自分自身は変化し、気づけば新しい価値観が自分に身についていたりする。
そしてまた、世界の視え方が少しずつ変わっていったりする。

時には、180度も世界の視え方が変わることだってある。


私たちは、心の痛みに必ず慣れる。

時間と私達の"慣れる"という特性によって、新しい環境や価値観やわからない現象に触れた時、どれだけ脳や体が拒んで苦しくても「慣れる」現象は、否が応でも必ず起きる。

「せざるを得ない」で世界は進み、創られる

人間は、所詮慣れて適応していく生き物だと思う。適応せざるを得なくなれば、必ず慣れる。

変化をしたいと考えていても、実際の所、現状維持をしているのは、まだ変化をする必要がないからだ。せざるを得ない状況じゃない。人が変化するときは、追い詰められたときか退屈が行き過ぎた時なんだろうなと思う。

温室に浸かっていても、現状維持をしていくばかりで変化はさほどないことは周知の事実だとは思うけれど、逆に現状維持をする必要のない/変えなければいけない環境というのは、自分を知らぬ場所や土地や価値観に身を置くようにし、自らを破壊していく行為が、自然と起きるのではないだろうか。
 
 

私は、今後世の中のあちこちで、これらが起こるだろうと思っていて、まさに、人類はそうせざるを得なくなるんじゃないかなぁ…と感じる事が多い。

破壊的ではあるけれど、結果的には真実と偏見や先入観といった類のものの、隔たり/分断という名の境界が溶けていくことであると思っている。
少しずつでも社会の分断が溶けていくことに繋がり、安寧な世に繋がる信じたい🙏



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