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生きるのが辛いなら、自分に都合良く世界を捉え直せばいい

 

slither.io(スリザリオ)をやると

この世は無常だと受け入れられる(気がする)。


生じては滅して

煩悩通りに動いては、求めたり攻撃したりして

結局自分が滅することが多く、自分が苦しむ。


煩悩を捨てると

うまくいくことが少し増える。

煩悩を捨てようとも攻撃されて

消えることはある。


この景色が、そもそもが

理不尽で不公平な今の社会みたいだなと思った✍

この世界に平等なんてない、と私は思う。


あると思っているから苦しいなら

そんなものないと認める

世界捉え直して生きやすくする。

人に遠慮したり、忖度することに何の意味もない。

自分が苦しいなら、
そもそも意味のないことなど全部やめる。


だから、ただ漂うだけで良い。

どんな未来になろうとも"ただそれが起きただけ"

と見つめるつもりで。


 ...


無気力が限界を過ぎると


社会が、何の意味もない世界に視えた。

何の意味もなさない空しいだけの

色のない世界になる。


この世界に意味なんてそもそもないから

( 人間が勝手に意味づけして

勝手に一喜一憂してるだけで)


創生神話も、自己啓発も、

ただのこじつけや自分を鼓舞する為の言葉に

思えた。

どんな意味づけも、

思い込む為の道具

思い込むという洗脳にしか視えなかった。



もう、いい加減

そういうの疲れたなーと思っていた。


 

 

結局何の意味もない世界で、

どう生きるかなんて自由で


柵に囚われることを選んでいるなら、

それを望んでいるということ。


これまでのパターンから抜け出そうとするなら

それを望んでいるということ。 


頭の中にはいくら望みや理想があっても、

今そこに向かって動いていない"ということは

それは虚構であって、

真実になり得ないということ。


真実は、行動が先。

虚構は、言葉が先。


私の中の真実は、こんな風に思う。


 


あるがままを視るということ


人の脳は、眼の前の現実を脚色して

"あるがままを視せない"なぁと思う。


人の脳は、

いつだって視たくないものに蓋をする。


そのことを念頭に置いて、

残りの生をのらりくらり生きれば

良いんじゃないかなーと自分に思う。


 

 

...


 

人は、どうせ死ぬという

唯一確定している絶対的な未来。


この虚しく意味や目的など

そもそもない世界で生きるということ


生きる中で

執拗にそれらを追い求めすぎて

追い込まれて自分が壊れるくらいなら、

そんなの全て辞めてしまえばいいと思う。

早く手放したほうが良い。


何かを成し遂げるとか

自分が生まれた意味だとか

存在価値を生み出すための営みとは、

限りなく人間を人間たらしめるものだとは

思うけれど、蓋を開けてみれば空しいもの。


そもそも、その営み(虚構)なんて

エンタメで暇つぶしのようなものだから。


どうせあと何十年か経てば、

絶対に訪れる死。

わざわざ寿命を早めることもないのでは、と思う。


 


 

どうせなら

今知らないことを知ることの連続をして、

死んだほうが良い。


専ら、心に余裕がない時は、

そんなこと思えないんだけどね......。


 


そういう時は、身体に従う。

身体の声を聴く。

身体が求めていることを観察する。


頭で考えていることと、

体の動きは結構違うことが多い。


死にたいと思っていても、

身体は生きようとしていたり

何もしたくないと思っていても、

気づけば情報を集めていたり


人間の頭と心は矛盾だらけで、

それがデフォルトであると思う。


だから、脳は結構馬鹿なので

身体の動きをアテにする。


どこかが痛いとか苦しいなら、とりあえず休むとか

頭に何も情報が入らないなら、情報から遠ざかるとか


自分を甘やかしていく。


頭に響く雑音は、

分析やジャッジが自分を苦しめるなら

とりあえず無視をする。


それに対して

自分が自分を責め立ててきても

無視をする。


自分を潰すのは自分であり、
自分の選択以外の何ものでもない。

自分の選択は、

自分の思考であり、

自分の価値観であり、

自分の感覚であり、自分の感情だ。


だから、一番純粋である源の感情を見つめる。

それ以外はさほどアテにならない。


...


 身近に

「早くこの世から消えたい」と自死を願う人が

生きていてほしい大事な人だったら、

どんな自分で居たならそれが防げるのだろう

と身内の自殺未遂からか、ずっと考えていた。


その答えが、ずっとわからなくて

このわからなさに苦しさを覚えた。


けど、きっとこの問いは、

世界に対してと同時に、

自分に対しての問だったんだと思う。


「どうしたら生きたいと思えるのか」

がわからなくて、藻掻いてた中

自分に生まれた外に対しての問。


生きたいと思える自分になりたい

と思ってきたけど、

ずっとなれなかった時間を過ごして

最近ほんの少しだけ思えてきた気がする。


自分という存在が

誰かを勇気づけることがあるのかも、と思った。


人と会いにいくだけで、

話しているだけで、

喜んでくれる人もいるらしい。


 

 

人が何を成し遂げるとか、何をするのかより、


人の存在という影響力がもっとも大きい、

とコテンラジオで聴いて思ったことがあった。


ただ生きることが

その内誰かの勇気になることがあるなら

生きるのも悪くないなぁと思った。

 


上がり下がりはもう十分なので、

自分の平穏は自分で守って生きる、
という自分との決意✍

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