顔がわかるだけでなく、確かな信頼のある経済圏で生きたい
よく都内のビルの狭間にある心ばかりの小さな公園で行われるようなマルシェだと「作り手の顔が見えるマーケット」だとか、スーパーの生鮮食品コーナーでは「生産者さんの声」といった”作り手(生産側)”に目を向けようとする動きがある。
生産と消費が遠すぎる現代において、それらは意味のある動きだとは思うけれど、それでも、そういった”生産と消費を縮めようとするような動き”が現れてから数年経つが、実際の所はというと、未だに生産と消費の距離は縮まっていないように感じる。
未だに、どこの誰が作ったか分からない商品が、自分の生活の中にはある。
無印良品だとかユニクロといった大手企業という巨大組織のメーカーだということだけはわかっても、”どこの誰で、どんな人なのか”といったことは一向にわからなかった。
そして、もっと言うと、その”作り手”が、「果たして信頼に値する人なのか」なんてもっとわからなかった。
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生産と消費と個人主義
私は、個人主義思想が優勢な現代を生きてきて、『一人で生きていかなければいけない』と刷り込まれてきたように思う。
家庭や学校でどんなトラブルがあっても、何があっても、『独りで問題を解決していかなければいけない』、と思っていた。
生きていて、その期間の方がずっと長かった。
自分一人で解決するものだと思っていたものだから、その体験が重なると、余計に人に頼ることは難しくなる。
私が子どもだった頃の平成の半ばは、特に共生や共助といった言葉とは真逆の世界だったと感じる。
ただ、そう思わされていたのは、きっと生活必需品だったりする衣食住に必要な”モノ”の出所が全くもって分からなかったこと・地域コミュニティの衰退・ひいては人との繋がりが感じられなかったことが、根底にはあったと思う。
当たり前を疑う生きづらさ
だけれど、自分たちが生まれたときには既に、生産と消費が遠いことは当たり前だった。
そこを疑って生きている方が少数派で、多数派と異なる言動をとったときに、変な奴だと敬遠されたり、欠陥があるように扱われたり、排他的な行動や、心無い言葉を放たれることも多く、生き辛さを感じてきた。
だけど、ここまで自分の声をずっと信じようとしてきた。
心が折れそうなことは幾度も訪れたし、心が曇って、もう志も何だかわからなくなった時もあったけれど、それでもやっぱり「おかしいことはおかしい」という自分のことを信じたい気持ちがどこかに僅かでも残ってたから、無理だと感じることが続いても、私は諦めが悪いのだと思う。
願い続ければいつかは叶う
この言葉は、一見ファンタジーに捉えられたり、精神論だとかスピリチュアルだとか、色んな言われをされると思う。
けれど、そんなのはただのレッテル張りでしかなくて、中身なんかないし”本当に意味のある意味”なんて伴っていない。
結局のところ、誰が何と言おうと、自分の中にあるものだけが真実でしかない。
自分の望みや願いについて、誰にとやかく言われようと、自分の経験や考え・感覚だけを信じたら良い、と本当にそう思う。
今の時代は、生きていることが当たり前すぎて、余暇の時間が増えすぎている。その時間を、他者の批評・批判に費やしすぎていることが増えたから、人の夢ややりたいことにとやかくいう暇のある人が増えたんだろうな、と思う。
こういう時代に生まれても、変わらないものや本当に大切な物は、自分自身で守っていきたいよなと思う。