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欲しいと願ってる内は、手に入らないことと同じだから

ずっと叶えたかった夢が、貴方を縛っていないだろうか
それを諦めていいと言える勇気が少しでもあったら
本当に欲しかったものも鞄もペンも捨てよう
街へ出よう

チノカテ / ヨルシカ

この歌詞が、初めてこの曲を聴いた時から、ずっと引っかかっていた。特に「ずっと叶えたかった夢が、貴方を縛っていないだろうか。」という所。

きっと、図星だったから引っかかっていたのだと思う。

そして、
「なぜ諦めて、本当に欲しかったものを捨てようとしているのだろう」と考えていて、一年ほどわからなかった。

けれど、今日その意味がわかったような気がしたので、少しnoteに書き残しておこうかと思った。


「なぜ諦めて、本当に欲しかったものを捨てようとしているのだろう」の問の結論としては、タイトル通り
「欲しいと願ってる内は、手に入らないことと同じだから」だ。


「欲しい」と願い、手に入れるために行動をするのは、一見すると当たり前の行動に思える。

顕在意識(脳)で、意識する(○○が食べたい等)
→体が動く

これまでの脳科学の常識からしても、順番はこうなる。
しかし、これまでのやり方だと、手に入れてはまた渇望する。これでは延々と満たされないループになる、と私は思う。

なぜなら、人の脳の意識のほとんどは、潜在意識(無意識)が占めているから。
無意識の領域を含めて自分を知らなければ、無意識の領域の自分に振り回される。

私たちは、いつでも潜在意識で知覚したものが、表層の顕在意識に映し出されていくから。

潜在意識(無意識)で司る→根本的な慣習が変わる

潜在意識のニーズが満たされない限りは、きっといくら顕在意識から満たしたとしても、いつまでも足りない。


よくよく考えてみて欲しい。
手に入っていない状態でなければ、「欲しい」とは思わないはず。
つまり、欲しいとすら思っていない状態が、"手に入れている状態"だろう。


身近な例で言えば、
今日買い物で「バナナが食べたい」と思って、スーパーで買うとする。
このとき「バナナが食べられますように」といったように願掛けはしない。
なぜなら、スーパーへ行けば手に入ると知っているから。

潜在意識的にも手に入ると既に知っているものに対して私たちは、手に入れることを強く望まない(望む必要がない)。
 
手に入らないと思うものに対してだけ、強く願う。
そしてその根底には、きっと「手に入らない」という信念がある。

潜在意識について解明されてきてから、人の生きる世界観は変わってきた。意識についての解明があっただけでも、生きる世界はこれだけ変わってくる。

否応なしに、今日も、これからも、世界や私達は変わり続ける。変化を望んでいても望んでなくとも。

顕在意識で強く望むことは、潜在意識では、「叶わない」という信念があるんじゃないかなと思った話をしてみた。


きっと、私たちは潜在意識を含めた自分自身のニーズを、もっと知らなければならない。

ここ数年、潜在意識を知ろうと努めてきたのだけれど、本当にそう感じている。

潜在意識を含めた自分自身を知ることは、本当の意味で自由を感じられることであり、本当の意味で自分を生きることなんじゃないかと思う。

さいごに

潜在意識は、スピリチュアルとか占いといったいわゆる"怪しまれるもの"の1つに括られてしまうことが人によってはあるけれど、私にとっては脳科学から入ったこともあり、完全に非科学的な位置では無い認識を持っている。
とはいえ、これまでのような科学信仰のみでは生きていくことは難しい時代になり、宗教性(スピリチュアリティ/普遍的な精神性)なくして生きていくことも不可能だと感じる。
科学的な視方・捉え方も、非科学的な視方・捉え方も、どちらも生きていく上で大事だなぁと思う。


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