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自殺を止めるには、どうしたら良いのかずっとわからないまま

この無力感と、しばらくの間闘っている気がする。

・19才の頃に初めて付き合った元彼
・2つ上の現在30才の姉

とても身近で、とても大切な二人の命の危険を感じたことがある。

「彼らが自死を選択しようとしたのは自分のせいだ」
「彼らが精神不安定になったのは自分のせいだ」


そんな自責の念で、自分の心が潰れそうになり疲弊してしまったことがある。
今も尚、その苦しみからは逃れられていないなと思う。

ついはずみで言ってしまった言葉に対し、精神が不安定な中で感情的になってしまった時の相手に、意図していない受け取り方をされてしまったことがある。
妄想を含んだ過大解釈だった。

責めたつもりは毛頭なくとも、
相手がそう取ってしまったら、それは責めていることと同じになってしまう。

それが、いくら過去の痛みを感じた体験から生じた思考や感じ方の癖(一般的な言い方をすれば、トラウマ)だろうと。

自分の気持ちの伝わらなさ、分かり合えなさから生じる無力さに絶望した。
大切な人が死んでしまったら、私の一部が死んでしまい、生きている心地がしなくなる。

人が死ぬということは、

人に忘れられること
あの時の思い出を話せる人を失うこと
確かに在った自分の一部を失うこと

つまりは、一部でも自分が死ぬということ。
そして、その後の生には、喪失感や空虚感が纏わり続け、嫌でも脳裏から離れないということ。
残された側は本気でそう思うのに、言葉で伝えても信じてもらえないという体験をした。

きっと、自分自身を愛せて信じられていない状態では、相手が愛を伝えても信じられないし、決して愛を信じられないし受け取れない。

「自分を価値のない人間だと思う」
「どこで人生間違えたんだろう」
「早く死にたい」

と彼らはそう言っていた。

自分が愛されるはずがない世界だと思っている。
そんな世界が辛くて苦しいはずなのに、自ら好んでその世界で生きることを選び、変化を拒んでいる。

自分の選択次第で、世界の捉え方は変えられるのに。

自分の言動がきっかけで相手が自死に踏み切ろうとしていたら、
過去に自分が放った言葉で相手が傷ついていることを知りながら、
何の手立ても見つけられずに相手が自死を選んでしまったら

その先の私は、歓びを感じて生きていけるのだろうか。



自分自身も、もう生きるのを諦めようと思ったときに事故を起こして自傷行為にあたるような自暴自棄になった出来事があったから、気持ちがわかるが故に、生きることを辞める選択をすること・何らかの自傷行為の否定も絶対にしたくないなとも心から思う。

けれど、目の前で自分と関係の深い消えそうな命が在れば、自分の為にもどうにかしないといけない気持ちになる。

きっと、それが生きるということの根本なんだと思う。

誰かのお陰で私がいて、
私のお陰で誰かが在るということ

人は、
「死と直面した時にはじめて生がわかるのかもしれない」と思う。

死を感じて初めて生が在るのかもしれない、と沖縄の島へ一人旅をした時の大自然の中でも思ったことがあった。

「三途の川を渡ると死後の世界へ続く」というのは、
”死”が現代よりもはるかに日常の延長に感じられる身近なものだったことの現れだと、昔聞いた。

名前がそれほど知れ渡っていない島の、人っ子一人いない大自然の中に人知れず佇んでみて、途方もない無力さと死に近いものを感じた。

崖の下で感じる落石する恐怖、
自然の力になんて敵うはずがない人間の無力さ。

目には決して視えない大きな力が、はたらいている。
この地球上において、大いなる自然の力を無視して、人間なんかがコントロールなんてできるはずがない。コントロールしようなんて甚だおかしいはずだった。

だから、”自我”で世界をコントロールしようとしても、不自然で、不調和が起こる。


自殺しようとしている人を止める方法は、今もわからないけれど、自分の体験の中で一つだけ確かなことは、ブッタの言っていたことは割と正しかったということ。

一切皆苦(いっさいかいく)


「人生は、そもそも苦しいものなのだから、苦しみから抜け出すには自我を捨てること」という教えは、結構合っているんじゃないかなということ。
ブッタも神様でも何でもなく一人の人間なので、執着や苦しみと向き合い、その結果出てきた答えなのかなと私は思う。


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