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空と空 その2~出会い~

 優介がこのアパートに一人暮らしを始めたのは、母からの紹介だった。もともと、大学に通う以前から常々「一人暮らしをしたい」という希望を話していたが、実家から十分に通える位置にある、お金の心配、ということもあってか、なかなか母が首を縦に振ってくれなかった。いらぬ心配をかけてまで踏みこむこともできず、またその熱意も示せないまま冬休みに入った。しかし、年が明けてから、突然「一人暮らし」の許可が下りた。

「その代り、このアパートね」

 と紹介されたのは、母の幼馴染が大家をしているというアパートだった。おそらく、前々から話しをつけてくれていたのだろう、母の幼馴染が便宜を図ってくれたこともあり、家賃の減額など、それなりに好条件で入居が決まった。通う大学からほどよい距離に位置していたこともよかった。父はもともと反対をしていなかったため「体には気をつけろ」の一言ですんなりと送り出してくれた。

 準備、引っ越しの予定等、種々の問題があって、実際の入居は春休みに入ってからだった。

 引っ越しの初日、家具等の搬入を終えた後、大家である母の幼馴染がアパート内を案内してくれることになった。基本的にはどの部屋も均一の造りをしており、台所もトイレも風呂も部屋ごとに完備されている点も変わりないが、ひとつだけ、それとは別に共用スペースとしての部屋ある、ということであった。

 造りは基本的には変わりない。そこは誰でも使える部屋であり、基本的にどう使おうとも自由であるが、自由であるゆえの自律を願いたい、管理はそれぞれがきちんと行う、誰もが気持ちよく使えるような配慮を願いたい、……などの説明を受けた。優介は聞いた内容に漏れがないよういちいちに こくり と頭を下げながら話しを聞いていた。話しを聞くごとに、頭を下げるたびに どきどき してしまう。じっくりと辺りを見回しながら、はやる気持ちを抑えられずにいた。

 共用部屋の説明が終わった後は、アパートの住人へのあいさつに向かった。

 このアパートには、優介の他に二人の住人がいた。

「小夜子さん、今大丈夫?」

 奥のほうで、はーい、という声が聞こえてから数秒後、中から、とろんとした目つきの女性が扉を開けて出てくる。

「この人、高崎優介さん。この前話していた、今日からここに住むことになった人」

 ぺこり 優介は頭を下げて、菓子折りを渡す。あーよろしくね、と小夜子は菓子折りを受け取った。その気さくな感じに心地よいものを感じ、どきどきしていた心が一気に解きほぐされていくのを、優介は感じていた。

 どんな人が住んでいるのかわからずに緊張をしていた優介は、小夜子とのあいさつでずいぶんと気がゆるんでいた。共用部屋で心配していた不安もどことなく抜け、もう一人はどんな人だろう、という想像を働かせられるほどには余裕が生まれていた。しかし、その分、隣を歩く大家の顔が険しくなっていることに、優介は気がつけなかった。

 もう一人の部屋はここよ、と大家が立ち止まる。優介は大家の一歩後ろに立った。

 一息おいて、大家が扉をノックする。

「流々ちゃん、今、いい? 大丈夫?」

 中から返事は聞こえてこない。

 しかし、それ以上大家は何をすることもなかった。漫然と扉の前で二人立ち尽くし、待っている。少しして、無理かな、という大家の小さなひとり言が空気をゆらし、優介の耳にも届く。優介は ちらり 大家の険しい表情を見て、再び緊張が走った。が、しばらくして、

 扉が、開いた。

 中からは、おそらく優介と同年代であろう、しかし少女のように幼くも見える女性が現れた。

 少女は優介をいちべつすると、大家に目を向けたまま、何も言わない。一瞬、時が止まったかのような空白が生まれたが、慌てたように大家が小夜子に伝えたことと一言一句違えずに言う。それでも少女は特に何を言うわけでもなく、再び優介を見ると、軽く頭を下げて扉を閉めた。

 ばたん

 何とも、むなしい響きが木霊して、優介はしばらく動くことができなかった。そんな優介を見かねたのか、悪い子じゃないのよ、とまるで自分にも言い聞かせるように口にすると、

「少しね、難しいところがあるのよ」

 それはどことなく、誰に聞かせるでもない戒めのようにも思え、言い知れないさみしさがあった。その言葉の後にも何かをつぶやいたようにも思えたが、優介には聞き取れず、何とも答えられずにいた。が、

「まあ、仲よくしてね」

 という言葉と共に笑顔を見せた大家の姿を見ると、はい、としか返事ができなかった。

 大家は案内を終えた後、何かわからないことがあればいつでも聞いて、と帰っていった。優介は大家を見送ると、部屋に戻り――すぐさま荷解きを始めた。何かに急かされているような、そんな気持ちがした。

 無心で作業を始め、ある程度部屋が整いだした。そうして集中が少しばかり抜けた後ふいに、それは本当にふいに脳裏によみがえった。

 入居者に渡すはずだった菓子折りをひとつ――あの少女に渡しそびれていたことに、いまさらながらに気がついた。

 あまりに衝撃的な出会いに、間抜けな人形のように手にした菓子折りの存在を忘れ、部屋に戻り、入り口に置いて作業をしていたことに、今になってようやく思い出したのだ。

 とりあえず優介は手を止めて、どうしたらよいのかを考えた。普通に考えれば、直接渡しに戻るのが自然であったが、先ほどの様子を見るに、出てくれるのかどうかも怪しければ、受け取ってくれる保証もなかった。次に、大家に改めて案内してもらう手も考えたが、大家はこの家に住んでいるわけではなく、近場ではあったものの緊急事態なわけでもないため、菓子折りを渡すだけのことにわざわざ呼び出して労を取らせるのは忍びなかった。

 考えた末、ひとまず共用部屋に赴くことにした。運がよければそこにいるかもしれないし、仮にいなかったとしても、しばらく待ってみるのもひとつであろう。待ちながら次の手を考えるのもいい。そう思うや否やもうそれしか考えられず、共用部屋、という緊張も忘れ、優介はすぐさま部屋を出た。

 共用部屋に先ほどの少女はいなかった。しかし、

「あら。えーっと、優介、くん。だっけ?」

 部屋に誰もいないわけではなかった。

 小夜子の言葉に優介はうなずくと きょろきょろ あたりを見回す。勢いのまま出てきたものの、共用部屋に入った瞬間覆いかぶさってきた緊張で我に返り、何をすればよいのか、優介はわからなくなってしまった。改めて、先ほどあいさつしたばかりの人と二人きり、という状況を理解し、震えているのがわかる。それを見た小夜子は、とりあえず座ったら? と声をかけた。その声色は緊張していた優介の心に語りかけるようなぬくもりがあり、すぅーっと体の緊張が抜けていくのがわかった。不思議とすっかり安心した優介は、ほっとした気持ちで礼を言う。

「今、お茶を淹れているところだけど、飲む?」

「えっ、と、はい……いえ、自分で、やり、ます」

 おずおずと台所に向かおうとした優介を、いいのいいの座って待ってて、と小夜子は制し、紅茶でいい? と言いながら、優介の分のコップを出した。小夜子の言葉と動きに流されるまま、優介は再び礼を言うと、大人しく椅子に座った。

 テーブルにお茶を置いた小夜子は、優介の真向かいに座って、じっと優介の顔を見つめる。その視線に気がついて、ドギマギと目を泳がせる。小夜子はそれを見て、笑った。優介は、顔が赤く、熱くなるのを感じ、うつむいてしまった。人見知りなの? という小夜子の言葉に、はい、と返す。

「すなおねー。じゃあ、なんでここにきたの? 共有部屋なんて、緊張するでしょう?」

 鈍くなった反応に少し間をあけてしまったが、優介は持ってきた菓子折りを見せた。しかし、なんて伝えようか、となかなか口に出せずにいる。考えているうちに、

「あぁ、なるほど。流々に渡せなかったんだ。それで? どうしたいの?」

 優介が伝えるまでもなく小夜子は状況を把握し、改めて優介を見つめる。少しばかりではあったがその視線には鋭さが垣間見られ、それは観察に近いものがあった、しかし、その視線の質の違いに優介は気がつくことなく、ひと呼吸おいて、

「えっと、流々? さんに、直接、お渡ししたい、のですが、その……うまく、渡せる気が、しなくて。どう、しようか悩んだ末に、とりあえず、ここに」

 それを聞いた小夜子は きょとん とゆるい空気が自分の中に流れていくのを感じた。思わず、微笑を浮かべてしまう。優介は相変わらずうつむき加減で緊張をしている様子も見られたが、その姿と言葉の絶妙なアンバランスに、ポジティブな印象をかえって小夜子に与えていた。

 しかし、このまま待っていても埒があかなそうなことも読み取れ、小夜子は少し考えた末、ひとつ試してみようと考えた。

「それなら、私が流々に渡してあげようか?」

 それを聞いた優介は、ばっと顔を上げると、すぐにまた目を逸らす。

 二人の間には、凪いだような時間の間ができた。うつむく優介の背後には、どことなく暗い、感情の波が立ち上っており、ぐるぐると渦を巻いては不安だけが駆け巡る。不安はいつまでも旋回を続けていたが、体をすっぽりと覆った波は岩礁にぶつかったように砕け散り、引いていく。その一瞬の平穏に、優介は想いを紡いだ。

「いえ……。それだと、一人暮らしを始める前と、何も、変わらない、から。やっぱり、今から、行ってみます」

 改めて聞く優介の言葉には純粋さが光り、紛れもなく快いものであった。小夜子はそんな優介を見ながら、飾りのない自然な目を向けていた。

 優介は、お茶を一気に飲み干すと、ごちそうさまでした、と勢いよく席を立つ。コップを片づけて、その流れのまま行こうとする優介を小夜子は再び制して、

「それならさ、私も一緒に行ってあげるよ」

 驚きのあまり、優介は目を真ん丸とさせて小夜子を見た。

「でも、そんな、甘える、わけには」

「んー? まあ、初対面のようなものだし、相手だってそのほうが安心だよ」

 だからいいんだよ、と最後に添えた小夜子の言葉に、正直に言えば不安を感じていた優介の震えが止まる。いいんですか? と、優介のおどおどした声を聞いた小夜子は、ゆっくりとお茶を飲むと、じゃあ行こうか、と立ち上がった。優介は頭を下げると、小夜子の後をついていった。

「流々―、今いい?」

 大家と違い、小夜子は気さくな感じで声をかけながら扉をノックした。ノックの音に呼応して、優介は鼓動が速まるのを感じ、それは声となって口から飛び出そうになっていた。やはり、少しの間をおいてから、扉が開いた。流々は先ほどと同じように、今度は小夜子に目を向けて、何も言わない。優介は、まず自己紹介から、と思いながらも、なかなか口に出すことができず、鼓動だけが駆け足になっていく。小夜子は助け舟として、

「この子、さっきも来たけれど、あいさつがちゃんとできなかった、って言ってたからまた呼んでみた。流々も、ちゃんと自己紹介してないでしょう?」

 流々は、初めてちゃんと優介のほうに目を向けると、

「青葉流々」

 と、端的につぶやいた。

 優介は、意を決して、

「高、崎、優介、です。今日ここに、越してきました。よろしく、お願いします」

 と言って、菓子折りを差し出した。

 手が震えているのがわかる。流々はしばらくその様子を見ていたが、手を伸ばして菓子折りを受け取ると、小夜子に目を向ける。小夜子は、にこやかな表情で、うなずいている。

「よろしく」

 そう言うと、流々は扉を閉めて部屋に消えていった。

 扉の音に違いはないものの、先ほどとは違ってむなしい響きも感じず、取り残されたとも思わず、その感触に、無事に終わった、と胸を撫でおろした。

「おつかれ。とりあえず、渡せたし、自己紹介もできたから、よかったね」

 本当にありがとうございます、優介は深々と頭を下げる。今日はもう、何度頭を下げたことだろう。ひらひら手を振る小夜子は、まあ何かで返してもらおうかな、と冗談のような本気のような口ぶりで、優介を困惑させる。小夜子は笑みを浮かべ、仲よくしてやってね、と言いながら自分の部屋に戻っていった。それを見送った後、優介も自分の部屋に戻った。

 部屋に戻ったとたん、言い知れない疲れがどっと現れて、これ以上何をすることもできそうにはなかった。片づけも中途半端なまま横になり、今日のことを思い返す。入居者との出会いも、これからの新しい生活も、そのすべてが刺激的であり、煩雑さがあった。

 これからの新しい生活は、これまで過ごしてきたものとはまったく別物で、あまりにも白すぎてどんな色に染まるのかも想像がつかなかった。そこには憂鬱もあり、歓喜もある。今日一日だけでも、緊張と安心がバランスを保てずに不安定であった。すぐになじめるかどうかも、わからない。

 その不安定な気持ちを振り払うように、少し休んでから体を動かすことに決めた。一休みを終え、片づけを再開する。片づけをしながらふと考えていたのは、流々のことだった。不可思議な雰囲気を身に纏う、あの他者を寄せつけない空気感。手の震えが全身に走る。と同時に、大家と小夜子の「仲よくしてね」という言葉が共鳴し、反響し、優介の胸に落ちる。優介は手を止め、いまだ胸に残響する言葉を感じながら、深呼吸をした。


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