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空と空 その1 〜プロローグ〜

 白い花、青い画布。

 遠い、どこか遠い場所で描かれているこの絵は、まるで映画のように自然と少しずつそのありようを変えていく。配色も、色彩も、自由でいて無限にあるようにーーそれは見るものによって微妙な差異があるのだろう。絵筆はどこかゆるく、かすれた線を基調とするかのように、流れていく。いったい、どれだけの月日をかければこの絵は完成するのだろう。ときのかけらがうずたかく降り積もり、埋まっていく過去の残骸が、その密度と質を高めているようでもあった。その重さの美しさに、圧倒される。人の世とは比べ物にならないほどの時間をかけて、どれだけの想いを内包しているというのだろう。

 時間はゆるやかに流れていく。一秒、一秒、肌を撫でていくように。それは無意識のうちに一定の刺激を与え、拍を打つように鼓動と同化する。そうしてしだいに空気にまで振動し、空にまで届いた脈動は息をしているみたいにその身を震わせているに違いない。あたかもその絵は生きているように、少しずつ少しずつ、そのありようを変えている。それは不思議なものだった。

 特に何をするわけでもなく、優介は ぼぅ、と空を眺めながら公園のベンチに座っていた。時間を持て余しているようにも、何かを待っているようにも見えたが、何とはなしに、今日はもう何の予定がないことに思い至って、のろのろと立ち上がる。いまさらながら、とも思う。いや、初めからわかっていたかもしれない。以前にも増して、覇気のない ふらふら 地に足のつかないような足取りで公園を後にすると、優介はアパートに向かって歩き出した。

 足早に過ぎていく人を横目に、どことなく取り残されていくような心地が、胸にぽかんと湧いてくる。次々に追い越していく人たちは、いったい何をそんなに急いでいるのだろうか。まるで何の不安もないように加速度的に増していく周囲の動きを目の当たりにしながら、いつの間にか立ち止まっていることに気がついた。もはや残像のように過ぎていく。ふわふわした足もとに地面への実感もなく、頼りない足場を一歩一歩たしかめるように歩く速度とは、雲泥の差だ。何が、こうまで、歩行に違いを見せるのだろう。

 足音の数だけ想いがあるように、その奏でられる旋律には意志が宿っているのだろうか。力強い歩き、弱々しい歩き、規則正しいリズム、不規則なリズム、様々な、旋律のような、歩く、という動き。その違いには、どんな意味があるのだろう。わからない と、ため息が、こぼれる。

 こうしてついた ため息にも、足音のように想いはこめられているのだろうか。むしろ、その足音よりも容易に空に昇り、想いを積み重ねているのかもしれない。ため息どころか、呼吸をするごとに吸っては吐き出されていく想いが、こんなにも繊細な色合いを映し出しているのだろう。何か特別なことをしなくても、それこそ息をするように目の前の世界は細やかな変化を続けている。認識できないような極小なものでも、それは、確実に、変化をしている。砂時計をほうふつとさせるような さらさら なめらかさと必然性が垣間見え、きっと永遠に続いていくに違いない。そうした、ほとんど動きのない、些細な変化の中に積み重なっていく想いが空に表れているのだとしたら、それはいったい、どんな表情をしているのか。それをたしかめようとして再び空を眺めた優介の瞳はしかし、何も映せなかった。想像はかいなく霧散して、ながながとした息を吐きながら瞳を閉じる。どことなくむなしい気持ちが体を包み、ふっと息を吐く。吐き出された息が空に昇っていく様を想像しながら、それを見送ると、アパートに向かって立ち止まっていた足を動かした。

 部屋に入ると、鞄をそこらに放り出し、横になる。天井はたしかにそこに存在し、形を変えることもなくただあった。見慣れていることに変わりはないが、あまりの無機質さに彩りは感じられず、つまらないものに思えて仕方がなかった。つまらない? 優介は、今しがた感じたものにつけた言葉の無意識さに違和感を覚え、体を起こした。どうにも、何か、最近は何かよけいなことばかりを考えすぎてしまうような気が、している。優介はそのまま何も考えないように、目も思考も閉じて気持ちを落ちつかせようと試みた。しかし、流れていく思考はなかなか途切れない。少しの間そうしていたが、このままでは落ちつきそうもない、と諦めた。瞑想じみた小難しいことをやめ、ぱっと目を見開いて立ち上がると、部屋を出た。

 優介が共用部屋まで赴くと、案の定、すでに先客がいた。

「あー、帰ってきたんだ。おかえり」

 とろん、とした目でお茶を飲む小夜子の気だるそうなあいさつに、どことなく安心感を覚える。出会ってからまだそれほど経ってもいないが、深入りを必要としない小夜子のほどよい距離感とペースに、優介は何とも言えない心地よいものを感じていた。

 小夜子はすっと立ち上がると「何飲むー?」と優介に声をかける。優介は慌てて、自分で、と伝えたが、

「んー? 今淹れたばかりだからついでだよ」

 ほら何飲む? と、押しつけを感じない小夜子の雰囲気が、嫌な気持ちを一切感じさせない。こんなやりとりも、ここに来てからどれだけ交わされたことであろう。小夜子のこうしたやさしさに触れながら、優介は自然と心が落ちついていくのを感じていた。

「ありがとう、ございます。それなら、同じ、もので」

 気を遣わなくていいのよー、小夜子は にやり とした表情をしている。優介は、恐縮しながら椅子に座り、お茶を淹れる小夜子の姿を見ていた。

 そんなやりとりからほどなくして、流々が静かに部屋に入ってくる。優介には目もくれず、棚からマグカップを取り出すと、台所にいる小夜子の隣に立って、すっと差し出す。小夜子は自然に差し出されたマグカップを受け取って、部屋に持っていくよ、とやわらかな声音で伝えた。流々は こくり うなずくと、そのまま部屋から消えていった。

 その流れがあまりにもよどみのないもので、意識から外れてしまいそうになるほどの流麗さを孕んでいたからか、まるで幻でも立ち寄ったかのように感じられた。実際に、優介にとって流々の存在はいまだにつかめない空想の人物に等しいものであった。まるで風や雲のように、そこにあるようで、そこにはないような雰囲気が彼女の存在を希薄化させており、気がついたときには影もなくいなくなってしまう。そんな模糊たる空気感が、幻のように、感じてしまう。優介は、流々が消えていった扉のほうへ目を向けたまま、夢を見るようにしばらく動くことができなかった。

 コトン

 湯呑みの置かれた音に目を覚まし、視線を戻す。優介は、すぐに礼を言った。

 小夜子は微笑を浮かべると、ちょっと待っててね、と言い残し、マグカップを持って部屋を後にする。取り残された、この静けさが、優介の胸に、空洞を感じさせる。ふと手を伸ばした先に湯呑みがあり、その触れた温かさと、その輪郭のたしかさが、むなしさを埋めてくれるように思えた。

 ゆれる お茶の みどり

 両手でゆっくりと湯呑みを持って、口元に持っていく。お茶を口にすると、喉を通る熱に体が驚き、思わずむせこんでしまう。明晰な思考が通るわけでもなく、ただ熱が全身を走っただけだった。それでもその熱は少しずつ内にこもり、脳をも覚醒させてくれる。そうして、小夜子が戻ってくるまでには気持ちにまで熱がこもり、調子を取り戻していた。

 戻ってきた小夜子は湯呑みを手にして、お茶を一口飲む。

「どう? 流々とは、慣れた?」

 うすい、どことなく憂えを帯びたような小夜子の瞳と口元が、言葉の調子とは対照的で、かえって強調されているようにも思われた。漠然とした何かを感じてはいたものの、それについて優介にとっては言葉にしがたいもので、うまく反応することができない。その調子の違いには触れられず、

「いえ……なかなか、お話しも、できて、いないので」

 そう言いながら、思わずうつむいてしまった。ため息を殺して、うかがうように、優介は ちらり 小夜子を見る。

 しかし、当の小夜子は先ほどの調子とは違って明るい色を灯していた。その理由も判別できずに呆けたように間抜けな顔をした優介を見て、小夜子は声をあげて笑う。

「うん、それならいいんだ。ま、仲よくしてやってよ」

 まあ、と優介は気の抜けた返事をすると、ほどよく冷めたお茶をすべて飲み干した。


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