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空と空 その6~ここに存在する~

 流々に絵を見てもらってから、二週間が過ぎた。

 あれからもたびたび、優介は絵を描いて流々に絵を見てもらっていた。それだけではなく、何気なく会話を振ってみるなど、できるだけかかわる時間を増やそうと試みた。意外にも、呼び止めるごとに毎回嫌がることなく付き合ってくれており、淡々とした装いは変わらなかったものの、断られることはなかった。かかわりを求める分、ちゃんと返ってくる。それがたとえ冷たいものであっても、それで十分だった。

 流々との会話は端的なもので、一方向的にも思える妙な強さがある。基本的に流々から会話を展開することはなかった。ほとんどが、優介が質問し、それに答える、というもの。話題の提供も、優介自身そんなに広げることはできず、世間話のようなことはできなかった。聞くことといったら、流々のこと、何をどう感じているか、など、意図してはいなかったが、ある意味では流々が応じやすいものだけであった。

 ある日の会話を切り取ってみると、それはだいたいいつも同じような展開につながる。

「ね、え、日々の、記録、日記みたいな、もの、って、書いてる、の?」

 その日も優介は流々を呼び止めると、途切れ途切れの言葉で声をかける。

「書いていない」

 そうして即答で言葉が返ってくる。

 それにたじろいで何も言えずにいると、会話にならずに行ってしまう。会話になるかどうかは、優介がそれを受けてすぐに言葉を返せるかにあったが、それは毎回うまくいくわけではなかった。

 今回も、すぐに言葉を紡ぐことはできなかった。少なからず、日々の記録を残しているものだと思っていた優介は、その言葉に衝撃を受けていた。自分の記憶を、日々の過ごしを、次につなげるように。かえってそれが、言葉ではなく疑問の形となって口からもれていた。

「振り返れないなら、振り返らないほうがいい」

 淡々としていて、まっすぐな意志を感じる。混じり気のない真実であり、それが至極当然の、正しいことであると言わんばかりの。流々の言葉はいつも、そんな風情を感じる。どうすればこんなにも、熱のない自信を持って、伝えることができるのだろう。その言葉を表出することが、できるのだろう。

 優介からすれば、記憶がなくなってしまう、という自身の存在がゆらいでしまう中で、それほどまでに「じしん」を保っていられることが、不思議でならなかった。

「残したい、とは、思わない、の? その、今の、自分の、想い、とか」

 それは未知に対する感情だったのかもしれない。少なからず口からこぼれる疑問は、よけいなものを一切排した純粋なものだった。

 流々の瞳は相も変わらず、深く、深い、色合いの視線を感じる。

「戻れないなら、忘れても忘れなくても、変わらない」

 少し間をおいて

「ただ、私として生きる。それだけが、私を私として生き続けている、支えとなる。それこそが、変わらない私の想い」

 つらつらとそれだけ言うと、流々はすぐに行ってしまった。

 そうして取り残された優介は、呆然とたたずみながら流々を見送るーーという流れだった。

 コミュニケーションが取れないわけではないものの、印象は変わらずに謎に満ちている。物の見方や考え方は、これまで優介が感じてきたこととはまったく別物であったし、想定できないものも多く止まってしまうことがあった。流々はそれを気にしない。気にすることもなく、待つこともなく流れていってしまう。優介は、頭の中で話しを整理しながら次の新月、次の新月と、時を重ねていっては、またリセットしてしまうその関係を続けていった。

 散りゆく桜を眺めては想いを馳せる季節もとうに過ぎ、新緑がまぶしく輝く季節となった。ときおりまだうっすら冷えるときがあるものの、春の陽気は心地よいほどにさわやかな風を運んでくれる。授業を終えた優介がいつもの喫茶店に入ると、そこには小夜子がいた。

「あら、優介くん、おかえりなさい。ってここはアパートではないわね」

 初め、優介は驚いた。席まで案内をされる途中に小夜子から声をかけられて思わず立ち止まると、ウェイトレスから「お連れ様ですか?」と聞かれる。小夜子は にやり としながら「そうよ」とうそぶくと、優介は小夜子の対面に案内された。優介は何も言わずに従って、とりあえず、カフェラテを注文した。

 店員がカフェラテと一緒にモンブランケーキを運んでくる。小夜子は店員にお皿とフォークをもう一つお願いすると、半分ずつにした。

「今日はね、流々の絵を見に来たんだよ」

 コーヒーを片手に小夜子はそう伝えると、一口飲む。そうして、ちょうど席の隣にかけられている絵を指差した。優介は、その絵を見る。

 それは、空の絵だった。いくつもの青を重ねて描かれたようなきめ細やかな明度の違いがあり、写実性よりも抽象的に、抽象性よりも写実的に描かれている。そんな曖昧さが光るようになのか、かすれている雲は青に溶けていくように儚げな色合いを写し出し、得てすると存在していないようにも感じられた。青を基調にまとめられ、邪魔するもの、遮るものは何もない。遥かなる蒼天をのぞかせている。以前の、流々の言葉がよみがえる。どんな心が映し出されているのだろう。その美しさからは悲観的なものは感じられず、むしろその青は希望に満ちた青春のごとき輝きに思えた。

 絵に見惚れる優介を見ながら、小夜子はコーヒーを飲む。ゆっくりとモンブランを口にし、改めて流々の絵に目を向けた。

「どう? 実際に、こうして見る流々の絵は」

 小夜子がそう問いかけると、優介はゆっくりと視線をテーブルに戻した。

「なん、ですかね。実際に、こうして、飾られて、いるのを、見ると、すごい、しか、出てこない、というか」

 うんうん、とうなずきながら、まあそうよね、と小夜子は返す。

 優介は再び絵を見つめると、うまく言語化できない自分にもどかしさを感じながら、飽きもせずに眺めていた。普段かかわりのある人の絵が、なじみのある喫茶店に飾られている。それだけでも奇跡的な出会いに思えた。

 時間のゆるやかさが肌をなぞり、安心感のある液体で包まれているような、濃密さを感じる。店内に流れる音楽がまた、幻想的で落ちついた世界へと導いており、そのままこの空の絵に入りこんでしまいそうになる。ケーキをいただくと、モンブランの甘さに幸福を感じ、その幸せを噛みしめながら、優介は空に浮かんでいった。

 空に積み重なる想いは、その中にどんな幸せを内包しているのだろう。優介は甘い幸せを飲みこみながら、それに触れてみたい、と手を伸ばす。空の幸せ。それは、何もつかめない。むなしく空を切る拳に、しっくりとくる言葉が浮かんできた。

 コーヒーを飲み終えた小夜子は、絵を見つめる優介の姿を見てそっと立ち去ろうとしたものの、少し考えてやめた。

 その気配に気がついた優介は、慌ててカフェラテを飲み干そうとする。小夜子は、別にいいのよ、と制したが、優介はすぐにカフェラテを飲み終えた。

 喫茶店を出ると、アパートまで一緒に歩く。

 空を見上げながら、先ほどの絵を思い浮かべている。

「記憶が、なくなるって、どんな、気持ちでしょう、ね」

 歩きながら優介は、そんなことを小夜子に投げかけた。

 小夜子は、空を見上げながら考え、
「そうね、いろいろなことを考えそう。自分は何者か、それを手繰る手掛かりのない、不安……」

 風が、小夜子の髪をゆらして、そっと肩に戻る。左手の人差し指を頬に当てて、思案している。

 けれど、そうね

 ぽつ っとつぶやいた言葉に、優介は小夜子の横顔を見ながら、その間を待った。

「それは誰も一緒かな。自分は何者か、なんてたいして知らずに、私だってこうやって生きている。記憶があろうと、なかろうと、今をこうして生きているのには、変わらない」

 その言葉を聞いて、流々の語った言葉が思い返される。記憶に対する、自分に対する、言葉。それは、やはり、いまだに、不思議に思える。優介の頭の中にはこんがらがった思考が渦を巻いており、自分がおかしいのではないか、という気持ちに至りすらしていた。

「そういう、もの、ですか」

 かろうじて紡いだ言葉は、納得とは似つかない、疑問に近いものだった。

 小夜子は優介の顔を見る。その暗さを見てとって、釈然としない何かを感じているのを、読み取った。

「まあ、もちろん、さ、記憶の保持、連続性は、自分が自分として生きている一つの指針だと思うよ。つながっているからこそ、自分を見失わずに安心して歩いていける」

 同じようなことを考えていた優介は、その言葉にしっかりとうなずく。

「ただ、どちらにしても、自分の声に耳を傾けて生きていけるなら、それが自分という存在の証になると思う。……私は、そこまでではないけれど、ね」

「でも、残された、人は?」

 間をおかず、口にしたその言葉はすっと流れてきた本心のように、感じられた。小夜子はその言葉を聞いて、やっぱり、という気持ちが頭を支配し、薄い笑みを浮かべながらもう何度となく経験した諦念を持て余していた。

 小夜子は ふっと 息を吐きながら、

「そう、ね……。人は、つながりで、生きているものね」

 しかし、優介はその語気に陰がにじんでいることに、さすがに気がついた。それは、これまでの話しからどんなことに対してかは容易に想像ができ、なんて返そうかと悩みながら、勘違いしないでください、とだけ伝えると、小夜子はきょとん、とした顔つきで、その言葉を待っている。

 ふぅ 何度か呼吸を整えると、これまで流々の話しを聞いたり、実際にかかわりを持ったりしながら感じていたこと、その願いを紡ぐことができた。

「それでもいいと、思う……けれど、それだとひとりで完結してしまう、から。それだけではない、ものも、見てほしい、と」

 それはこれまで流々と出会い、かかわってきた者とは違う、新しい感覚だった。小夜子はその言葉を聞いて、自分自身も流々の変化に対して諦めていたのではないか、と痛感した。同時に、弱々しく、歯切れの悪い、おとおどとした、自信のなさそうに見える優介の姿に改めて、力強い逞しいものを感じた。それは小夜子に安心を与え、自然と口もとがゆるむ。それを見た優介は、どうしましたか? と聞くと、小夜子は飾りのない微笑みをうかべながら、

「ちょっと、うれしいだけだよ」

 期待しているね、と一歩大きく踏み出して、少し早足になった。両手は後ろで結び、気持ち空を見上げている。

 置いて行かれた優介は ぽつり はい つぶやくと、誰にも聞こえない声は天に昇り、空に溶けた。そうして、小夜子に追いつこうと、足に力を入れた。

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