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空と空 その4~月読~

 あくる日の夜、何とはなしに部屋の外に出ると、平生よりも薄暗さを感じる。星々のきらめきは変わらずであったが、何が要因であろう。と、中庭のほうに向かった優介は、その理由に気がついた。

 今日は、新月であった。

 欠けていった月の隠れた夜が、仄暗い空を生み出していた。

 これからまた少しずつ満ち、完全なる月夜に向かって、時が進んでいくのだろう。満ちて、欠けて、廻る。零から百へ、百から零へ。何とも、不思議なものである。

 優介は大きく伸びをすると、部屋に戻って床についた。

 朝は適度な憂鬱さと眠気を持って鎮座し、覚醒までには目を開けてから時間を要する。

 さわやかさのかけらもないその目覚めは慌ただしい学校生活とは違ってゆるやかな流れがあり、それが緩慢な動きに拍車をかけていた。

 朝は共有部屋で食べることにした優介は、半覚醒の頭で顔を洗い、最低限の身だしなみを整える。部屋を出るころには八割方覚めていた。目覚めた頭で、朝は何を食べようか、と考えていたが、その実、小夜子が何かしらの朝ごはんを作っているかもしれない、という期待に胸が躍っており、ただただわくわくしているだけだった。

「おはようございます。えっと……、ごめんなさい。どちらさまですか?」

 しかし、期待というものは裏切られるために存在する。が、この場合はその方向性も違う、喫驚とでも呼ぶべきものだった。

 扉を開けると、そこには小夜子の姿はなく、代わりに流々がいた。

 その親しみのある明るい声と表情は、これまでの流々の様子からすると想像もつかない姿だった。さらに、困惑と共に返ってくる先ほどの不可思議な言葉に、実は目が覚めたと錯覚しているだけで、夢の中にいるのかもしれない、と疑い、そのほうが納得しやすかった。しかし、覚醒した脳がそれを否定し、流々には見えないように口内を噛んでみたが、痛みは現実を教えてくれていた。それこそ、この痛みまで再現した精密な夢でもない限り。

 流々は、返事がないことからか少しずつ表情が曇り、おどおどしているようにも感じられた。こんなにも表情豊かな姿を見るのは初めてだった。そもそも、会話につながる言葉自体、初めてだ。優介は慌てて、

「えっ、と、前に、少、しだけ、話したけれ、ど。優介、です」

 しどろもどろに言葉を紡ぎ ぺこり 頭を下げる。それを聞いた流々は ぱーっと 顔が明るくなり、どことなく頬を紅潮させてうつむいた。そうですか、と小さくつぶやいて、顔を上げて笑顔を見せてくれる。優介は、困惑と困惑に思考が追いついていかないが、その笑顔を見て、あらゆることがどうでもよくなる自分がいた

「わたしは、るる、です。よろしくおねがいします」

 かわいらしいほど天真爛漫な様子に改めて幼い雰囲気を感じ、この姿だけを見るとあの大人びた画家よりも何も知らない少女にしか見えなかった。きらきらした瞳は影も知らないようにも思え、無邪気な、そう無邪気な子供のようであった。朝食を食べに来た、ということも忘れて、優介は思考が停止しそうにもなったが、その笑みを受けながらひとまず、よろしく、とだけ返した。

「ごめん! 流々、待たせた」

 勢いのある音で扉が開き、小夜子が入ってくる。優介はその音に驚いたが、さよこさん! と流々は駆け寄っていき、ぎゅっと小夜子の腕を組んだ。

「いま、ゆうすけさんと、はなしをしていました」

 その声で優介に気がついた小夜子は眉をひそめて表情を曇らせる。どことなく、余裕を感じさせないものがあり、優介も何も言えなかった。よくよく見ると、聴診器を首にかけている。口を開こうとする前に、小夜子は流々を連れて、

「とりあえず、私の部屋に行こう。ごめん、優介くん、また後で」

 すぐさま出て行ってしまった。

 部屋に ぽつん と置いてきぼりにされた優介は、その状況がまったく飲みこめず、呆然と立ち尽くすしかなかった。ひとまず、朝食を食べよう、と考えたが、ここではなく自分の部屋で食べることにした。

 その日の夕方、小夜子が優介の部屋に来た。

 コン コン

 ノックの音に扉を開くと、小夜子の姿があった。すっかりと調子を取り戻している様子で、

「今、時間ある?」

 その声にはいつもの穏やかさがあった。

 優介が小夜子を招き入れると、

「初めて入ったけれど、きれいにしてるのね」

 小夜子はぐるりを見ながら感嘆の声を出す。

 優介は気恥ずかしくなって何も言えなかったが、どうぞ、と座布団を一枚対面になるように移動させて、お茶を用意した。

 一服すると、どこから話そうかな、と小夜子はひとりごちた。

「優介くん……さっきの流々の様子を見て、どう思った?」

 朝のやりとりを思い出す。これまでの様子にはない、明るい姿、親しい雰囲気、あまりにも不思議で、いまだに夢だったのではないか、とも思える。しかし、改めてどう思ったか、と聞かれると、うまく言葉にすることができない。初めに思い浮かんだのはただ、会話ができてうれしい、というものだった。それらを踏まえて、うまく結ぶことはできなかった。

「そう、です、ね。どこと、なく……ふしぎな、感じが、しました」

 それを聞いた小夜子は、一瞬 ぽかん としたが、うん、とうなずくと、言葉を続ける。

「流々は、ね。記憶に、障がいがあるの。記憶喪失、って言ったほうが一般にはわかりやすいかな」

 そこからの小夜子の話しは、優介にはあまりに現実から離れたものにも思え、すべてを理解することはできなかった。

 流々は、幼少のころから絵の才能に溢れており、両親ともに熱心な教育を捧げていた。それは確実に絵の技術を、その眼を育てていったが、過度にも思える教育は、本人が望んでいるとは限らない。異変が起きたのは、中学三年生に上がったばかりのころだった。初めは違和感程度にしか思っていなかったが、だんだんとそれは異変につながった。明らかに、記憶がない時間がある。どう過ごしていたかどうか確実に記憶しておらず、気がついたときにはここにいた、ということが、たびたびあった。

 流々の叔母にあたる小夜子に相談をしに来た理由と主訴は、そのようなものだった。

 それ以前にも何度か姉から話しを聞いていた小夜子は、ひとまずの受診を勧めた。診察、経過観察、その後の診察後に、診断としては記憶系統よりも解離性を疑われ、しばらく通院をして様子を見ることになった。

 その後も診察と経過観察を繰り返し、完全な改善も見られないものの、それ以上ひどくもならず、小康状態が続いていた。そうして迎えた高校二年生の冬――事故が起きた。

 流々を迎えにきた両親は、車を路駐させて待っていた。少しばかり早めについたこともあって、母は隣にあるスーパーまで買いものに出かけ、父は車の中で待っていた。母が戻ってくると、父も運転席から出て母を手伝う。ちょうど、トランクに荷物を入れているところで、流々は両親の姿を見つけた、そのときーー車が突っこんできた。それは後からわかったことだが、車線変更がうまくいかずに誤ってアクセルを大きく踏みこんでしまい、起きたものだった。両親は即死、その様子を克明と目撃した流々はその場で卒倒した。

 その後、小夜子の勤めている病院に連絡が来た――のは、念のため緊急連絡先のひとつに入れておいたためだった。

 流々が搬送された病院に到着した小夜子は、すでにベッドで目が覚めていた流々を見て、安堵した。しかし、

「えっと、お母さん、ですか?」

 その言葉を聞いて、小夜子は瞬時に対応することができなかった。いまだ状況も飲みこめていない小夜子であったが、不安そうな流々の顔を見て動揺も見せられず、笑顔を貼りつけたまま、先生に話しを聞いてくるね、と否定することもなく伝えると、担当してくれた医師を訪ねた。

 電話が来た段階ではそれほど詳しいことは伝えられていなかったが、改めて事故のこと、そして流々の状況を聞くことができた。小夜子は呆然と話しを聞きながら、姉と義兄が亡くなったことのショックもあったが、流々自身の状況と彼女のこれからのことを思うと、悲しんでいることもできなかった。流々の状態としては、

 おそらく、事故を間近に見たショックで、一時的に記憶を失っている。もしくは、一時的ではないかもしれない。どこまで記憶を失い、どこまで記憶しているかは、まだわからない。というものだった。

 医師との話しを終えたからと言って、この先どうするかの方針が決まったわけではなかった。ひとまずのところ、自分は母親ではない、ということは伝えたほうがよいとは思うが、それ以上は何も、どうすればいいのか考えられもせず、決断もできなかった。

 結局、それだけを伝えた後、しばらく病院で経過観察が必要になった――

 それは病院で過ごしているうちに判明したことであるが、流々の記憶に関して、概ね消失しているのはエピソード記憶であること。消失後、一~二日は若干幼くなること。記憶の保持はちょうど、新月から次の新月の間であること。それ以外、日常生活に支障がないこと。である。

 今後について、家族等も踏まえて話し合った結果、小夜子が引き取ることに決まった。住居は、ちょうど父の姪がアパートを運営しており、そこに二部屋を借りることにした。姪である大家はそれを喜んで受け入れてくれた。しかし、他の入居者は違った。大家本人はつながりもある分、理解もし、受け入れてくれたものの、かかわるほどに奇妙に映る流々のことを怖れ、疎ましく思い、気味が悪くなり、ついには退去してしまった。新しく入居者が来ても、同じであった。

 流々は、記憶を消失してからだいたい三日後には、年相応の落ちつきと共に人とそれほどかかわりを持たなくなる。もしかしたらある程度記憶の蓄積もあり、人とかかわることそのものが快いものではないことを知覚しているのかもしれない、と小夜子は考えている。もともと、人づきあいが得意な子でもなかった。

 小夜子は、普段は看護師としてではなく、あくまでも家族としてかかわっているが、必要以上に介入することはしなかった。それは、流々のプライベートを守るためでもあったし、生活能力に支障はなく、画家として生計もたてているためある程度の自由を保つためでもある。

 主に介入が必要なのは、流々が記憶を喪失した直後。このアパートや自身のこと、その他もろもろある程度の説明をし、バイタルチェックをする。説明はいつもすんなり入っていくし、消失するといっても経験は残っているからか、スムーズに受け入れている。バイタルに関しても、変動はほとんどなかった。絵に関しては説明するまでもなく、まるでそれが天命のように、自然とそこに向かっている。

「そこからの流々は、変化がないの。あれから、三年経っているんだけれど、ね」

 早いもんだね、と苦笑いを浮かべる小夜子は、目が全然笑っていなかった。

 話しを聞き終えた優介はすべてを理解することはできなかったものの、あの不可思議な現象に理由がついて、妙な説得力を感じていた。それと同時に、これまで見えてこなかった流々について、どんな存在であるのか、その手がかりを得られたようにも感じた。パズルのピースは初めから組み合わさるようにばらけられているが、もしかしたらこうした一連の流れにも、その法則は当てはまるのかもしれない。ひとつのきっかけで組み合わさったものは、これからのかかわりにつながっていくものではないか、と優介は考えた。

「それ、なら、少しでも、いいほうに、変わっていけたら、いいですよね」

 それは天啓だったかもしれない、が、流々のことか、自分に言い聞かせているのかの判断は、その言葉を聞いたものに委ねられている。

 当の小夜子はその言葉を聞いて、どことなくほっとしていた。

「いつだった、かな。忘れたけれど、流々があどけない表情でこう言ったの」

 ――月読

 それは、流々が自分でつけた、自分の診断名だった。

 それはどこの文献にもない、正確には診断名ですらない、流々と小夜子の間にしか通じない暗号だった。当の流々も、小夜子がそう伝えなければわからない。が、それは大切なことだった。自分の症状を見て、それに名前をつける。名前をつけて、そこに意味を持たせる。意味を持たせることで、自分がどんな状態であるのか、どんな対処ができるのか、を知る。その意味が、もしかしたら今後の変化につながるものになるかもしれない。事実、そうして名前をつけたこと自体、ひとつの、唯一の変化であった。

「新月から次の新月まで。まるで月を読むその満ち欠けが私を象徴している、って」

 優介はその話しを聞いて、昨晩に見た新月の空と、考えていたことを思い出していた。

 満ちて、欠けて、廻る。月を見ながら、その想いを馳せる。

 何か、少しでも。何か、少しでもいい方向に。月を読む、それは記憶だけではない。誰かと共に読む月に自分史をつなげて、想いを紡いでいくように。

 何かに導かれていくような力強い想いが宿るときには、一歩先どころかその先へ、ここではないどこかへ向けて歩き出せるエネルギーに満ち溢れる。それは意識的にしろ無意識にしろ変わらない推進力を得て、迷いを捨てられるものとなる。

「いろいろ、あるんだけれど、さ。仲よくしてやってね」

 優介は、この前はうまく返事のできなかったその言葉に、

「はい」

 と、即座に返事ができた。

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