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ゆれる

 そのとき私は、何を思っていたんだろう。今では思い出せない。そのときの情景は何となく思い浮かぶし、今ここにいるまでの道行にしても、何となく、たどれる。けれど、私が思い起こせるのはしょせんそこまでで、そのとき――いや、今ここにいるまで私がしてきただろう行動自体は、おぼろげな形を保つ指で描いた絵のように、たしかなものは記憶に残されていなかった。一つ一つの所作なんて完璧に思い出せるはずもないけれど、こうまでおぼろげだとあきれてくる。特に気にしていないことがそれに拍車をかけていて、それも、今に始まったことでもない。頭で思うことと、体(ないしは心)で感じていることは、こんなにまで違うものなんだろうか。私は――どうなのだろう。いまさら考えてみたところで、何がわかるわけでも……そうだ、いまさら考えたところで、何か見えてくるものがあるわけでもない。そのときの行動さえおぼろげなのだ、そのとき何を思っていたかなんて、覚えているはずもないんだ。

 しだいに風景が変わっていく。連続性があるようにも、不連続的につなぎ合わせられているようにも見える。――ふっと、思い出すのはビル十七階の景色で、雑然と並べ立てられたコンクリートの山々がある一定の秩序を保ってそこに広がっている様子を見たとき、未知に出くわしたあの瞬間の感情から抜け落ちた好奇心以外のすべてを呼び起こし、ひどい気持ち悪さを覚えたことだった。それはどことなく枠の外にある感情で、そのとき自分が古代人であることに疑いを持たなかったのは、今でも理由がわからない。――一つのことをきっかけに、次々と何かを思い起こす、が、具体性を欠いている。細部が見えない、その前に流れていく。あぁ、それはまるで……

 とっさに左足を踏み出して、踏んばる。よろけ、倒れそうになった体を支える。ふいをつかれた驚きに全身が満たされた。瞬時に走り、そして消える。意味もなく足元を見た私は、その踏みだした左足に宿る感情を見つめながら――顔を上げた。あぁ、やっぱり。と妙に納得できたのは、普段見慣れない風景のせいもあるかもしれない。

 思い起こす過ぎ去った一日は、移りゆく車窓のようだ。瞳に残る風景みたいに、輪郭が薄らいでいる。そこに残る心情さえ、内から眺める想像のようだ。過去の自分はもはや、他人なのだろう。

 私は車窓を眺めながら、視界に入るその人に意識を傾けた。あの人は今、どんなことを思ってそこにいるんだろう。何を、思っているんだろう。傍目から見ているだけでは、何もわからない。つらいのだろうか、かなしいのだろうか、眠いのだろうか、それとも。その表情を見つめながら――何だか妙に憂えた微笑を想像しながら、私はどんな表情をしているだろう。それさえも、想像の中のものでしかない。

 ならいっそ、想像しながら思い起こしてみよう。思い出せないのなら、いっそ。窓の外の風景を、すべて私の記憶で塗りつぶそう。


 朝はどんよりとした空気がいじけているみたいだった。弱々しい冷気は体温を奪うわけでもなく、かといって熱に負けているわけでもなく、適当に折り合いをつけてただそこにいた。そのとき風はまだ寝転んでいて、申し訳程度に寝息が無意識の働きをしていた。外に出た私は、ある一種の晴れやかさを持っていた。緊張は適度に私の頭を活性化させて、幾分普段よりも調子は明るい。どんよりとしたまま展開の変わりそうにない空は私の気分にも変化を与えることなく、ほとんど存在していないかのような立ち位置がいっそうその様相を高めていた。メランコリック・ドゥームのような哀愁をそこに感じることもできるが、なにぶんそのときの私は多少の日常のずれから目をそらすことができなかった。哀愁に浸ろうと思う間さえなく、自分を鼓舞しようと意識的に無意識の励ましをしていた。そして、ふいに冷静になるとき、私は結局その多少の非日常から目をそらすことができていないこと、どんなに取り繕っても焦りを感じていることがわかった。それが頭によぎってしまうこと自体がすでにそれを気にしているということ。頭に思い浮かんだ瞬間、もうだめなのだ。少しでも意識してしまえば、動きにぎこちなさが出てきてしまう。いつも通りでなくなってしまうのだ。

 しかし、ある一種の晴れやかさを持った私はその焦りを感じてはいながらも、この空のおかげでその気分を維持することができた。バスに乗りこんだ私は、珍しく一番前に座り、諦めと同じ感情で鼓動を持て余していた。これまでの経験が生かされているとすれば、それくらいのものだ。そのため意気揚々と私はバスを降り、たいした意味もなくゆっくりと駅の構内を歩き回って、階段を下りた。計ったように、階段を下りる最中に電車は到着した。私はわざわざ階段とは逆の方向に足を向け、しだいにゆるやかになっていく電車と共に歩いた。電車が止まるとドアが開き、するりとそこに入る。と、すぐさま視界に飛びこんできたものは、真っ白い少女だった。少女といっても、おそらく大学生くらいだろう。白いドレスのような服に、白い鞄。そして、見方によっては白く見えないこともない脱色しきった金髪。ちらりとその姿を見ると、何度も ちらちら その姿を確認していた。

 私が乗った車両の最後尾には、椅子がなかった。車椅子の方が利用できるように広いスペースがあり、私はそこで窓を背にして寄りかかった。まっすぐ向けば、車窓とほんの少しその少女が見える。電車が動き出すと、車窓が移る。背景だけが変わり、少女は何も変わらない。私は悟られないように、それでもときおりはじっと様子を見ていた。

 次の駅につくと、思ったよりも人が入ってきた。私は体を傾けて、進行方向に視線を向けた。あの白い少女を見る機会が減り、凝視することはなく、すきを見てちらりちらり視線だけを動かした。車窓を見る機会が増え、私はそれまでと逆の外を見ながら、ふとバスに乗っていたときの高揚感がなくなっていることに気がついた。心の奥底で熱が渦まいているのを感じてはいるものの、頭は妙に冷め切っていて、それこそこの無機質な音を聞きながら浸っていた。少女はやはり、少しも変わらない。その格好とあいまって人形に見える。私はそれからもその少女をときおり見ていたが、初めに感じた印象以上のものを受けることはなく、また心の高まりがなくなっていることに気がついてからは見ること自体が減った。しかし、決して見ることをやめようとはしなかったし、どうしても気になる何かを感じてもいた。その何かは、結局わからなかった。中心部の駅で降りるのではないかと思っていたその少女は、本当に人形でもあるように少しも動かなかった。まばたきすらしていないのではないかと疑った。当ての外れた私は、その二つ先の駅で降りた。降りる前に見ることはなかった。きっと、少しも変わっていないのだろう、その姿を想像することはできた。今でも、うっすらと。

 私があの人を初めて見たのは、この駅だった。普段降りることのないこの駅で、方向音痴の私は看板を頼りにあちらこちらに視線を移しながら階段を下りた。そうして電車に乗りこむと、多少のタイムロスがあったことを覚えている。私はさっきまで乗っていた電車とほぼ同じ場所に立っていた。動くのを待っていると、その人はきた。杖が地面を叩く音、危なげない足取りで危なげな進み方、そしてその人を支えるように付き添っている女性。横からするりと入ってきたその人は、その付き添っている女性に導かれて、空いている席に座った。クリーム色のリュックサックをひざの上に置き、杖を立てる。付き添っている女性はそのほとんど真向かいの席に腰かけた。私は何となくその人が気になって、先ほどの真っ白い少女と同じようにその姿を見ていた。小豆色のサングラス、上下共に白っぽい服。そして、クリーム色のリュックサックに、白い杖。髪は黒く、どちらかといえばうつむき加減に座っている。かと思うとしきりに目や体を動かし、再びうつむいた。私がその人を気になったのは、たんなる好奇心に他ならなかったと思うけれど、どうしてここまで気になったかはわからなかった。

 いや、実際にそこまで気にしていただろうか。私がその人を見たのは、入ってきたそのときだけではなかっただろうか。じっと観察などしていただろうか。しかし、よく覚えているように思う。それも、たんに見ていたからではなく、今朝のことだからだろうか。

 具体的な配置はよく覚えていなかった。記憶が正しければ私は窓際に寄りかかっていて、あの人はあそこ、向かい側のちょうど一番端に座っていた。今と同じ一番端っこ。いまだにうつむいている。車窓の移りとは、同調しているようには見えない。

 そのとき私は何を考えていたんだろう。何を見ていたんだろう。あのときはまだ単純な好奇心と不安が大部分をしめていた。一言で表すならば きたい という言葉がしっくりくる。そういった変な緊張、妙な心の逸り。奇異な頭の冴えと、詭計な冷静があった。それはまさしく私の心をもやで包んで、記憶にさえ干渉しているある種の働きを及ぼしていた。そのときはたしかに焦っていなかった。しかし、心と体、また頭は切り離されていた。それぞれが意思を持っているように完全に別個の存在として独立していた。現実感を持てなかったのはそのためであると思うし、それゆえに、初めからそこに縁などなかったのだ。

 しかし、少なくともそのときには何の疑いを持たなかった。そもそも視点は別のほうに置いてあったし、思考もそれに合わせていたに違いない。秋の細やかな肌触りに通ずるような、絶妙な距離感が錯覚を起こし、縁という存在そのものを結びつけてはいたものの、いわゆるそれは幻だった。そしてそれがあまりにも絶妙で巧妙な罠を仕掛けていたものだから、結局罠にかかっていながら何にも気がつかなかったのだ。ただ、どちらにしろそう違いはなかった。双方共に具体性を欠いているし、車窓に思い起こしている――結局は、パズルのひとかけらに映る情報を読み取っているのに変わりなかった。しかし、それは何も、この、ここの、ことだけだろうか?

 電車は休むことなく走り続けている。それに乗って運ばれている私たちは誰もがここで立ち止まり、きっと、おそらく、誰もが私のように意識だけが立ち止まることなく動き続けているに違いない。電車の中は一つの箱に過ぎず、収められている私たちに変化はなかった。変化があるとすれば、みんなの頭の中と、車窓だけだ。うつむき、目をつむるともう車窓は見えず、意識だけは変わらず流れ続けているものの、もしかしたら電車だってこの場に留まっているのかもしれない、なんていうことを考えた――

 が、ふいに、体が前に押し出されると、それらすべてが空想の出来事でしかないことを思い知らされる。目を細め、目に力がこもると、口内の肉を甘噛みし、車窓に頭をたらした。

 目的の駅の名を告げた瞬間、あの人は立ち上がった。氷像が動き出した印象を私に与えたのは、それも一つの、何らかの力が働いていたからだと思う。ゆるやかに視界を移りゆくあの人の姿だけが鮮明で、しかし、私は視点を変えようとも、動こうともしなかった。多少の驚きを胸に聞きながらも、まるで体は関心がないかのようだった。それも、当然のことと思う。あの人は視野のほんの端。基本的に映るのは車窓で、そのときの私は、一体どんな記憶を映していたのだろう。目を凝らしてみても、現実に見えるはずの外の風景すら思い出せない。

 少しすると、電車は止まった。たしかに、止まった。扉が開くと、あの人はすぐに降りた。私はすでに体を扉に向けていて、あの人が外に出ると、間を置きつつ歩調も落として、あとをたどった。それは無人の部屋を覗くような導で、ノックするたびに――少なくとも私は意味もなく緊張した。ぬるりと緊張が湧き上がってくるのは、たんに強面のお兄さんが思いもかけず顔を出すそんなちんけな想像を振り払えないからではないだろうし、振り払ったはずの状況が形をなして襲ってくるような、亡霊的な何かを知らぬ間に負ぶさっているためでもなさそうだった。しかし、紛れもなく緊張を感じているのは事実で、出所はいっこうにつかめなかった。それは進むたびに高まっていくように感じ、思わずうつむくあの人の表情を見た。すぐに視線をはずす。そうして、緊張が違和感に変化したと思ったら、あの人の隣には誰もいなかった。付き添っているはずの女性はあのまま眠りにつき、おそらく王子が来るまで目覚めないだろう。今でもまだ、眠り続けているに違いない。そのためなのか こんこん 白杖を用いながら器用に。

 歩行するリズムの乱れを感じつつも、私は速度を上げなかった。ばらつきは何も速度のせいではないことを知っていたし、それよりも、あの人のあとをたどるほうが気になって仕方がなかった。それにしても、あの人よりも、まっすぐと歩けていないように感じる。私はなんて歩くのが下手なのだろう。首を傾けて こつん もたれる頭を こんこん こんこん あの人が歩いている。ぐるぐる景色たちがめぐりゆき、混ざり合う。うずめいた先には何が あるのだろう。衝動的にあたりを見回しそうになる自分をいさめて、歩いていると、ふいにあの人の立ち上がる気色を思い出した。

 すると、若い女性があの人に話しかけるのを視認しながら急速に違和が失われていき、そこに宿る感情に自然と胸にしずくがたれた。女性はあの人の手を取ると、階段を下りた。あの人は白杖を持ちかえ、素直にその手に従う。今見ても、美しいと思う。すとん と胸に落ちつく、その穏やかさがかえって夢ではないかと脳に語りかけるが。

 ……そうして少しの間うつむいていた頭を持ち上げると、嘆息をついて唇に触れた。道はそこで見事に途切れていて、それこそその女性に導かれるままに毒りんごをすすめられるかのような、隔絶されている運命を見せつけているみたいだった。しかし、作者のある一種のやさしさと甘さによって、渡されたのはおそらく毒りんごではなかったに違いない。……視界には、あの人が映る。

 しかし、そのときには、そんなことを思い馳せていただろうか。わからない。結局一人になった私は、煩雑する足音の中でひときわ目立つ自分の歩音をたしかめるように足元を見つめ、雑踏の中を歩いていた。言い知れぬ空しさをなぜだか覚えながら、地面を叩く足を見つめる。ふいに顔を上げたところで何が解消されるわけでもなく、そうしてどちらにしろ差異があるようには思えない道を進み、少しも立ち止まることなく目的地に到着した。


 そうして今、改めて見える景色に驚きを隠せないまま、頭の中でゆれている記憶が統合されていくような、そんな錯覚を味わっていた。それはどこまでが本当なのであろう。そこまでは、わからない。それは本当に記憶していたものなのかすら怪しく、作りものでも、幻でも、否定できるものではなかった。しかし、それがまぎれもなく真実であると、少なくとも、私の脳はそう感じていた。

 車窓に視線を移せば、あの人の表情が見える。深い青に包まれた瞳はどことなくかなしいものにも思え、その瞳に映る私の姿はどんな色をしているのだろう。少し視線を変えればそこにはただの青空が広がっている。同じ青なのに、晴れやかな。そこに鎮座するあの人は青空に浮かんでいるようにも見えて、それこそ降りてくるその空と同化しているようにも感じられた。だからなのか、その瞳に青い気配を感じるのは。

 少しずつ視線をずらしていくうちに、自分の姿が映っているのに気がついた。あの人と空と自分、すべてがゆれては混ざり、分離しては混在する。ぼやけ、薄らいだ輪郭が映る。その中で共有できるものはきっとかなしさだけで、同調する青に どんどん どんどん 吸いこまれていくように感じた。

 私が先ほどまで歩いていた場所でも、この色を背負い、眺めていたに違いない。それはたぶん、あの人も同じだ。だからこそ、惹かれあったのだろうか。それは今でも覚えている。この胸に、たしかに残っている。

 帰りの駅を歩いているさなか、あの人の姿を見つけたのだ。驚きとともに立ち止まり、意識が自然とあの人に向かいながら、周りの景色がゆっくりと流れていくように感じられた。それでも、今朝に見た、あの人の姿に変わりはなく、ノックする白杖の衝撃で再び時間が流れ出すと、思わず後ろにつき、そのまま同じ列に並んで電車を待った。

 がたん ごとん

 簡素なミニマル音楽に耳を傾けながら、しだいに溶け合っていくような心地になる。そのリズムに酔いしれながら音が耳から離れ、鼓動と共鳴しながらかえって静寂感がつのる。そうして意識だけが移動を続けていく中で――ふいに、この簡素なミニマル音楽に彩りが加わった、と思ったら、ノックの音が強く響き渡り どんどん 耳にせまり、残る。何気なく視線を車窓ではなくあの人に向ける。けれど、実際にはじっとその場に座っているだけで、白杖も動かしていない。

 そうしているうちに、前に、後ろに、右に、左に、足を踏み出さなければ姿勢を保てないときがあるのがなんとも言えず、そのたびに私の思考はゆさぶれているように感じる。

 電車を待っているあの人はひとりきりで、やはり少しうつむき加減に佇んでいる。アナウンスの音に反応して顔を上げると、白杖を一度 こつん 握り直していた。

 電車に乗りこむと、まるで初めから誰もいないことがわかっていたようにすぐさま端に反転し、白杖を持ち替えて右手で手すりを持った。そうして姿勢を落ちつかせる間もないうちに近くの女性が立ち上がり、あの人に声をかけた。あの人は礼を言うと、女性に導かれて席に座る。代わりにその女性が先ほどまであの人がいたところに立つと、そのまますぅーっと消えてしまった。いや、ほんの少し目を離したすきに、その存在が掻き消えてしまったようだった。それとも、単に忘れてしまっているだけであろうか。

 ほんの一瞬だけつながるその縁は、こうまであっさりとした幕引きながらも美しい糸を紡いでいるように感じられた。細く、もろく、長く続いていくものではないけれど、その刹那があまりにも心に沁みるものだった。

 そこに宿る感情を見つめながら――うなだれているようにうつむいているあの人は、どのように感じているのだろう。その表情から心情を読み取るのは困難で、まして、私が語れるはずもない。どこを切り取って眺めても、何も変わりなかった。それこそ今私が感じているあの人の表情が今のものであるのか、正確にはわからなかった。そのとき、私は何を思っていたのだろう。どの場面を思い起こしてみても、想像する気持ちになれないほど何も変化がないように思った。

 私はうつむいているあの人の顔を見ながら、どうしても疲れと諦念、そしてかなしさしか感じ取ることができなかった。笑顔だって見ることができたし、多くの細い糸とのつながりから感謝の表情だって見て取ることができた。けれど、そうした多くの手助けの後はきまってうつむき加減に座り、どうにも表情が暗い。それは何となく私にもわかりえる感情で、それに言葉をつけるなら、拭い去れない苛立ちに他ならない。

 車窓に移りゆく景色を目で追いながら、ひとつひと
つ、置いていかれたような心地になるのは、単に電車が――私が早々に過ぎてしまっているからであって、置いているのはむしろ私なのかもしれない。それは永遠に続いていくものではなく、目的の駅につけばそれまでだ。そうして、私も、あの人も、一緒に同じ駅で降りる。それまでの間だけ、こうして思考が好きに巡ってしまっているだけ。それだけに、すぎない。

 アナウンスが鳴る。電車が次の駅に到着するために、ゆるやかに速度を落とし始める。後、もう少し――

 ふいに、あの人は立ち上がった。

 大きく目を見開いたままあの人の姿を追ってしまったのは、単なる反射とは別の多大な驚きのためで、動揺を隠せないままどこからスローモーションに見えるその動きを見つめていた。器用に白杖を用いて電車の外へと旅立っていくあの人の動きを いちいち 見逃すことなく、ついに追えなくなった。そうして電車の扉が閉まり、動き出すと、あっという間にあの人を置き去りにして完全に、見えなく、なった。

 あの人の姿を見送った姿勢のまま固まってしまった私は、そのまま車窓を眺め、いまだに速まっている鼓動をいさめることもできずに必死に記憶をたどっていた。車窓を流れていく景色を眺めながら。しかし、それはただ通り過ぎていくだけで、どうにも鈍い頭の動きでは紡ぎ合わせる糸口も見えず――がくっと頭を車窓にぶつけると、そのまま少しの間、車窓にもたれかけた。

 これまで、あの人を追いかけながら塗りつぶしていた車窓の過去は、しょせん想像のものでしかなかったのであろうか。どうにも結び合わすことができず、自然とあの人が座っていた席を見ると、あの人の影さえも見えず、それこそ幻想のように気配もなかった。もしかしたら、初めからあの人なんて、いなかったのかもしれない。そんなことを感じさせるほど、夢幻でも見ていたような頼りない記憶に不安が募る。

 これまで私が考えてきたことはすべて、妄想に過ぎなかったのか。それとも、この車窓が映し出していた映像作品であったのだろうか。もしかしたら、本当に、他人に過ぎないのかもしれない。

 繰り返し、同じことが脳裏に浮かび上がっては、また繰り返し。そのうち、何を考えていたのかさえ過去のものだと思う以前に、そもそもその過去自体が本当に存在しているのかすらあやふやで、もはやバランスを保つことも困難であった。寄りかかっているはずの手すりでさえその存在を保証もできず、不安になって思わず視線を向けて確かめる。触れてみて、ため息をつくと、姿勢を戻した。

 車窓は何も変わることなく――速度に合わせながら常に変化を続け、どんどん、どんどん、そのけしきを置いていく。過去を、置いて、いく。

 私は思わずうつむいて、目をつむった。目をつむり、もう、何も、見えなくなる。車窓は黒に塗りつぶされ、過去も、現在も、未来も、ない。それでも、独特の浮遊感が移動を感じさせる。その曖昧さ加減に、ゆれている。

 そうして、電車が止まる。目を開ける。乗り換えの駅に着く。私は、そこで降りる。扉が閉まる。電車が、行く。そうして……

 先ほどまでと違って踏みしめる地面はぐらつきもなく、不安感もない。それでも、頭も、体も、どことなく不安定ないぐらつきを感じ、いまだに車窓の中にいるのではないか、と疑った。

 目を閉じると瞳の中には車窓が映り、景色は流れていくものの、そこから移動をしている感覚はなく、停滞していた。自分で動かなければ、何も、変わるものはなかった。過去も、現在も、未来も、すべて、車窓ではない、自分の瞳に移していくより他は。

 そうして目を開けたその先に、あの人の姿はどこにも、なかった。
 

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。