クッキーを買う

お金に対して責任を持つこと。
子どもたちが先生の学校で。
こども先生に学んだこと。

つい最近まで、お金を稼ぐということに対する私のイメージは全くよくなかった。自分がそこで働くことによって、何か、社会の、諸悪の要素に加担してしまうのではないかというような気がして、普通の人なら何も考えずにできる、コンビニバイトや、食品工場のバイト、畑のバイト、搾乳バイトなどでさえ、そこに出て働くということもしてこなかった。

諸悪の要素、の根底は、地球を破壊しているのではないかという恐れだ。大学で畜産や農業、自然界について勉強したこともあり、自分たちがしていることが、いかにハーモニーからかけ離れているかを見せつけられてきた。
だから、そういった世界にいること自体、恐怖で仕方がなかった。

同期の友だちにはもちろん、酪農の職業に付いたり、畑の仕事に付いたりした人もいる。ということはつまり、自分というパーソナリティは彼らよりも、もっと調和を求めたい人間なんだということだ。これ自体がいいか悪いかはさておき、これが私という人間なのだから仕方ない。

そんな中で、この自然とのつながりが断たれた現代社会の中で、私という人間が存在し続けることは、ある意味で存在を消す以外にないように思えた。
現実問題、まだ私には自らがソースになれるだけの経験がないため、どこかからお金をいただくことでしか収入源にすることはできない。それが、バイトはイヤだってなったら、どこからも収入がなく、つまりは飢え死にを意味する。そんなことで悶々と悩んで一歩踏み出せずにいた私に、ある出来事が起きる。

どこにもバイトにはいっていない、と書いたが、今私は子ども学校みたいなところに通っている。この学校の子供たちは私の先生である。

先日、学校内で外部のカメラマンを招いた小さなイベントが開催された。そこで、アン先生(仮名)はクッキーを売ることにした。

いつもなら考えてしまう。そのクッキーの材料はどうやって育って、どうやって収穫されて、はたまたそのクッキーの砂糖の量はインスリンを出しすぎてしまわないかとか、きりがない。
焼き上がりの時間になるといい香りがして子供たちがクッキーに群がって、自分のお小遣いでクッキーをゲットする。おやつはいつだって子供たちをとりこにする。様子を見守っていると、

ジン先生は気づかずに本来のクッキー代より少し多めに払っていた。それに気づいたアン先生は10円多く払ってるー!と声に出すも、ジン先生はすでにクッキーをもって庭に飛び出していた。
そしたら、その場にいた大人から、もらえるもんはもらっとけ。という声が聞こえてきた。それが自分の中で反響する。

もらえるもんはもらっとけ。もらえるもんはもらっとけ。もらえるもんはもらっと…け、か。
それは確かに私が持っていた一考えでもあった。

愛は、確かに無料だ。もらえるもんはもらっとけ。愛が無料であることを当たり前とした、発言。それが、私も含め、調和の中で生きる人々が抱える葛藤の象徴なのではないかと思った。
大自然とかかわっていると、木々は、季節が来たら芽を出し、花を咲かせ、実をならす。樹が芽を出すとなっても、お金を払わないと、芽を出さないよとはならないし、木々の実を積んでも、樹はお金を要求しない。その恵はいつだって無料で豊かで、それ自体に価値を付けること自体がばからしいと思えてくるのだ。
だから、愛が無料であることがあまりにも当たり前だからこそ、そこにいろんな念のこもったお金というエネルギーを流していいのか?という違和感が生まれる。

その違和感が明確になったとたん、今度は、お金の存在は、無料の愛の存在を際立たせるために生み出されたのではないかということに気づいた。
いろんな念のこもったお金、と書いたが、そのお金に込められたエネルギーが、私利私欲でなくて、調和を思った愛によるものであれば、そのお金を受け取れる。と思った。よいエネルギーのこもったお金をうけとり、また、よい循環を生み出す場所に流す。

それは、地球と生きる上での責任を持つことでもある。とも思った。
責任範囲、拡大、一歩前進、である。
そのお金の源(愛のソース)に責任をもって、今は、納得ができる場所で働く。いいと思ったことの選択を繰り返していくこと、それがいずれは世界も変えることを私は知っている。いずれは、自らがそのソースになることを目標としよう。
アン先生ありがとう。いいことを教えてもらった。

勉強代として、クッキーを一枚購入した。甘くってさくっとほろっとしていた。


上記学校について興味のある人はぜひご連絡ください。

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