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阿佐ヶ谷姉妹という関係性(という幻想)

令和時代、女の関係性で「阿佐ヶ谷姉妹」のような関係性を求めるようになった人が増えた。いや、以前より求められてはいたが、家族という基盤が、社会という基盤が、男性の労働にぶらさがることでしか機能できずに作り上げられた構造が多く、難しい現状だった。解放を求めた先には、”性別”に囚われず、自分の自由さを肯定してくれる存在、関係性を持つことができる自由さを獲得したかったのだろう。


コロナが猛威をふるっていたあの頃、YouTubeでは男性シェアハウスの動画が人気になることや、男性同士の結束力、グループ性、女性同士のシェアハウスや女性同士の結束力を想起させるコンテンツが人気となった。それは事実であろうがコンテンツとしての表現であろうが、観測手の我々は、理想と現実の狭間に魅惑されていたのだ。おうち時間が重視される環境も相まって、イベント性を、人間関係や対人関係に求める層が増えたように見受けられる。そこには、エンタメ性が必要であり、とはいえ、華やかなエンタメ性ではなく、あくまで日常の延長線上に存在するエンタメ性を求めていた。普遍的で変わらない、そこには自由さを見出してくれるような作品に。キャラクター性という無形のものに魅了され、キャラクター性に恋を焦がれて。


人々は日常にもエンタメ性を求め、消費を続け、提言を続けるようになった。自分の幻想や理想を重ねることで、自分だと錯覚していたのだろう。危ういグラデーションの部分に気が付くことができずに、私はあくまで観測手であり、”推し活”をしているから線が引けているのだと、安全な環境で消費をしていると言い聞かせるように。それはただの消費活動にも関わらず、正当化をしていた。


共感性というキーワードが大事になり、誰かのフラストレーションを上手く言語化できることに、価値を見いだされるようになったSNS社会。自分の意見なのか他者の意見なのか、グラデーションが起きている中で、正しさを追及されるようになった。そうなることで、正しさはイコール共感性という公式が出来上がり、「共感をしないから正しくない」、という誤った消費活動が蔓延した。間違いだと気が付くには遅すぎて、発信者側も自分と生活のグラデーションの線が曖昧になり、ハレーションを起こす。消費の限界だ。


「阿佐ヶ谷姉妹」のような関係性に辿り着くまでには、傷つきや挫折が多く存在している。出来上がった関係性においても、いつかは終わりが来るであろうという恐怖を抱きながら人生の駒を進めていく。法的拘束力や関係性の名前がない揺らぎに安心感を覚える一方で、自分は終わりのないものを抱えているのだと不安感に見舞われる。今後は法的拘束力のない関係性を充実させるナラティブが消費され続け、求められ、多くの人が選択していくであろう。自由さを求めた先には、無傷は存在していないのに、そこは無傷であるユートピアだと幻想を抱いて。


関係性は一時的なものであるのに、世の中には縛りつけるものが多すぎて、人々はその利害関係の一致が無いように見える関係性に恋い焦がれている。関係性ができる前も、出来上がった後も、無傷ではいられない。違和感を持ち続けながらも、その違和感を包み込む技量がないと脆くすぐに壊れる。”推し活”のようにはいかない、私たちは観測手ではなく、関係性においては当事者なのだから。

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