見出し画像

認めてもらいたい欲求を「推し活」の代替行為で消化する

認めてもらいたい欲求を「推し活」の代替行為で消化して、それを推しておけば自己肯定を安定して図ることができるようになった。認めてもらいたいというのは、継続して、安定した、脅かされることのない領域で、自己肯定を図ることができる行為だ。誰かという他者から、負荷を掛け合う状態で埋めてもらう行為は引け目を感じる中で、自己完結ができて、他者に認めてもらわずとも自己肯定を図れる安全な行為は、「推し活」という言葉に集約された行為となって、ポピュラーなモノとなった。


特に二次元を推し対象としていると、違う次元にいるから、あなた/わたしの境界線が明瞭に引かれている。ストーリーは、作者の意図によって書かれたものが決まっており、そこから取り出したキャラクターに魅了される。すでに作者という設定者によって決められて、不変さを持ちつつも、自身の妄想の世界では可変できる要素に恋を焦がれ、自身が加害をするかもしれないという危険性を緩和することが可能だ。(二次元だから傷つけても良いということではないが、生身の人間への加害を恐れて、違う次元なら大丈夫であろうというある種の逃避的行動かもしれない)


二次元のキャラクターとしての彼ら彼女らは、異なる次元に存在している。誰も傷つけることがない幻想と、自分自身も傷つくことが少なく、平面化や立体化されたグッズを携えて、料理や旅行先で写真を取ることで消費をする。推し活は、そのキャラクターそのものに執着をするのではなく、自分のアイデンティティを表明する一要素として完結する。そのキャラクターが好きイコール恋愛感情ではない所以、それが「推し活」だ。


二次元に関しては、愛されるというより、相手の設定に対して羨望のまなざしを向けることや(そのキャラクター自体になってしましたい憧れ、そのキャラクターが実生活にいたら救われたかもしれないという渇望)、自分の妄想の余地で楽しむ推し方がある。(俗にいう夢女子、BLやカップリングとしての見方)


漫画やアニメの推しは、物語の中でいずれかは死を迎えることや、物語自体が終結(打ち切りや、作者の意図として物語の構成上終わりなど、様々な終わりの迎え方がある)するが、作品自体がこの世から消えることはない。むしろ、妄想や想像の余裕で保管されるのが二次元を対象とした推し活であり、本来の作品上のキャラクター設定から少々逸脱されたものが好まれる傾向もある。それは、そのキャラクター自体を推しているのではなく、そのキャラクターの仮面や枠だけを借りた行為であり、はたしてそのキャラクター自体に魅了されているのかとは言い難いが、記号としては借用している。


記号を愛するということ、自分自身のアイデンティティとすること、自分が傷つかずに自己肯定を図れる手段をして「推し活」が広まったのであれば、完璧さや、何者かにならなければなならい強迫観念のようなものが広まった現代において、マッチングした流行事象であろう。傷つきたくない私たちにぴったりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?