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自罰の子、他罰の親

自分で自分を罰する人も、

他人を罰する人も、

原因は、心の中にべったりと張り付いている、「自分は無価値だ」という思い込みです。

その無価値感の重さに耐えかねて、その場にうずくまってしまえば、自分で自分を嫌い、自分を責め、自分を罰する人になります。

自分を罰する人は、心が晴れることがありません。
ただそこに存在するだけで、自分は無価値だ、という感覚に支配されているのですから、心が晴れる筈がありません。

いつも、引け目、を感じて生きています。

自分で自分の価値を値引きしています。
つまり、自分を、みくびって、います。

価値の無い自分の人生は、砂を噛む様に味気無く、
自分が薄い膜で覆われた様に、現実感がありません。

味気無くて、現実感の無い人生に、活き活きとした充実感を得ることなど出来ませんから、
自分の人生でありながら、まるで他人事の様に感じられます。

しかし、その人は、生まれた時からその感覚しか知らないので、
苦しいし、辛いし、寂しいのですが、それが当たり前だと思って生きています。

当たり前だと思っていても、苦しいものは苦しいし、抱える無価値な思い込みは重いのです。

無価値な思い込みは放っておいても、自然に溶けて流れることはありません。

溶けて流れるどころか、人生を歩むうちに出くわす出来事に、ぶつかり躓くことで、抱える無価値な思い込みは、重さを増します。

その増してゆく重さに耐えかねて、いつか動けなくなってしまいます。

その人は、思っています。
重さに耐えて歩いている時も、
耐えかねて動けなくなっても、

「どうせ自分なんか…」と。


その人が、そんなに自分を低く低く見積もる様になってしまったのは、

親が他罰の人だったからです。

親は、自分の心の内にべったりと貼り付いた、無価値の思い込みから、目を逸らす為に、

子供の価値を貶め、責め苛みます。

子供が賢く無い、聞き分けが無い、意気地なしだ、泣き虫だ、

そう思っていれば、自分は子供よりも優れた存在であるかの様に感じる事が出来ます。

問題は全て、子供にあり、自分には無いという事に、決めること、が出来ます。

何かあれば、子供をなじることで、自分に非はない、という立ち場に立つことが出来ます。
心の内に貼り付いた、無価値な思い込み、から目を逸らす事が出来るのです。

その親がずっと他罰的な人だったとは限りません。

少なくとも、その親の幼少期は、親から貶められる環境に育った筈です。

他罰的な親によって、親の無価値感から目を逸らす道具にされた幼少期、が有る筈です。

自罰的な人と、他罰的な人は、同じコインのオモテとウラです。

コインは無価値感で出来ています。

コインをテーブルに投げた時、オモテになるか、ウラが出るかは、キッカケ次第です。

キッカケは、無価値感をなすりつける相手が居るか居ないか、です。

無価値感をなすりつけるには、自分よりも弱い相手が必要です。

弱い相手が見つかれば、自分の無価値感をなすりつけ、他罰の人になり、

見つからなければ、無価値感の重さに耐える自罰の人になります。

他罰の親の下に生まれた子は、親から、親が抱える無価値な思い込みから目を逸らす為の道具にされる、自罰の子として、人生をスタートします。

親が他罰的であれば、子供は無力な弱者ですから、子供は利用されるだけの自罰の子になるしかないのです。

その自罰の子が、自分より弱い対象を見つけたら、それをキッカケにコインのオモテとウラがひっくり返り、

自罰の子は、他罰の子に変わります。

弟や妹が出来た事がキッカケかも知れませんし、学校で自分よりも弱い相手を見つけることがキッカケになるかも知れません。

無価値な思い込みは重たく、抱えて歩くのは、とてつも無く苦しいのです。

だから、弱い相手を見つけたら、そっくり背負わせてしまいます。

強い立ち場の者と、弱い立ち場の者のコントラストが最もハッキリしている関係が、親と子、です。

その親が、無価値な思い込みを抱えて生きて来た人ならば、

これ程、苦しみを全て背負わせる条件が整った相手はいません。

子供は徹底的に無力であり、無力であるが故に、親を慕うことで生きる仕組みになっています。

心に思い込みなど貼り付けていない、健やかな心を持った親であれば、
慕う我が子を愛おしく思います。

しかし、抱える無価値な思い込みから目を逸らすことでいっぱいいっぱいな親は、
どんなことがあっても自分を慕って止まない我が子の姿を、
絶対服従の姿勢、と見誤ってしまいます。


無価値な思い込みに苛まれる人は、親になる時、選択を迫られます。

子供に重荷をそっくり背負わせて、自分が身軽になって生きるか、

自分と向き合って、無価値な思い込みを投げ捨てて、我が子を抱いて人生を歩むのか、

択ぶのです。


選択の時、残酷ではありますが、多くの無価値な思い込みを抱える人は、子供に重荷を背負わせることを選びます。

それ程までに、無価値感に苛まれる景色は、耐え難い苦しみの景色なのです。

親に代わって背負った荷物は、

とてつもなく重いですが、

他罰の親の下に生まれた自罰の子は、

最大の親孝行を既に済ませています。


苦しみの果てに、
気づきの灯りが見えたなら、

迷わずその道を進み、
掴み取って欲しく思います。

望む親子関係は手に入らなくとも、
望む人生は歩めるのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム










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