見出し画像

心の傷に対峙する母、目を逸らす母

我が子の屈託の無い笑顔、
可愛くない訳が無い、

我が子の楽し気な姿、
愛しく思わない筈が無い、

それなのに、この子のことが、どうしても癪に障る、

自分ばっかり笑って、
自分ばっかり楽しそうで、

泣かしてやりたくなってしまう。

そんな思いに執らわれる自分を、
毎日責めているお母さんが在ることを、私は知っています。

この子を愛している、
この子が可愛い、と心の中で、祈る様に呟いてみても、

その祈りとは裏腹に、
癪に障る自分がいる、
泣かしてやりたくなる自分がいる。


そのお母さんの心の状態がどうであろうと、子育ては待ったなしです。

悩んでも、自分を責めても、
今日も明日も明後日も、この子は居るし、自分は母親なのです。

そんな逃げ場の無い状況に在りながら、
自分の内面と向き合おうと、もがいている時点で、
そのお母さんは、気づきに向かって駆けています。

大変な勇気だと思います。


生きづらさを抱えたまま、母になる人にとって、出産はひとつの踏み絵です。

我が子が描かれた板を、踏み割って自分の内面から目を逸らすのか、

今は上手な愛し方はわからないけれど、板に描かれた我が子を愛すると決め、その胸に抱くのか、

選択を迫られます。

愛している、と自分に言い聞かせても、愛していない自分に気づいてしまう、と苦しんでいるお母さんは、

既に気づきに向かっています。

何故なら、苦しんでいる、ということは、自分の内面と向き合っている証しです。

板を踏み割ったなら、苦しみはありません。

見たくない自分の心の傷を探っているから、傷は痛みを放ちます。


板を踏み割る選択をした母親は、生涯気づきに向かって駆け出すことは、ほとんどありません。

生きづらさを抱えた人は、母親に気づかせたい、と望みますが、

踏み絵を踏み割った母親は、自分の心の傷とは対峙しないことを選択したのです。

だから、自分は我が子を愛せているのだろうか、と悩み苦しむことも無ければ、気づきに届くことも、ほぼありません。


自分の心と対峙することを決めたお母さんは、逃げ場無く、待った無しの状況下で、悩み苦しみます。

しかし、心の傷が痛みを放っても、内面と対峙することを選択した時点で、

このお母さんは、気づきに向かっていますし、その子の心も大丈夫です。

何故なら、幼い子供には心のことの責任は一切無く、子供の心の傷の原因は、親の心にあるから、です。

お母さんが、尊い決断をした時点で、子供の心は守られます。

その尊い決断が、この子の心を守ります。

今は、悩み苦しんでも、決断したご自身を褒めて欲しく思います。

これまで自分を責めに責めて生きて来た筈なのです。

だから、愛し方を見失いました。

けれども、尊い決断を下しました。

これまで、責めに責めたご自身を、
今度は、これまでの分まで、褒めてあげて欲しいのです。

ネガティブの根は親の心に伸びています。
だからお母さんが自分を褒めることが、子供さんを癒やすこと、なのです。


踏み絵を踏み割ることを選択した母親は、余程のレアケースを除いては、生涯気づくことは無い、と思った方が良いのです。

その母親が選んだ人生に、善悪、正誤、優劣はありません。

確かに、子供に重い荷物を全て持たせて、身軽になって、自分と対峙すること無く、ここまで生きた母親はむごい、と思いますが、

それが、その母親が選んだ人生です。

そして、子供には子供の人生が、母親とは別個にあります。

その母親の下に生まれた、という事実はありますが、
それは、その子の人生の最初にあった、出来事、です。

そんな出来事があった、と認識します。
だれを恨むでも、何を悔やむでも無く、
そんな出来事があったな、と思える様になった時、
その子は、生きづらさから解放され、自分の人生を軽やかに生きることが出来ます。

望む親子関係は手に入りませんが、
望む自分の人生を歩めます。


人の数だけ人生がある様に、

親子の数だけ親子関係があります。

愛情溢れる家庭に生まれる、健やかな人もいれば、

逆に親から愛を搾取される環境に育つ生きづらい人もいます。

さらには、
愛し方を知らない自分に気がついて、自分と向き合う母がいれば、

子供に重い荷物を全て背負わせて、自分と向き合うことから目を逸らす母も在ります。

どういった境遇に育っても、

自分の人生と、親の人生を明確に切り分けることが、

自分の人生を、

軽やかに生きるには、

どうしても必要な様なのです。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?