ひとつのスクリーンにふたつのストーリーを映す人
私の肌感覚なのですが、生きづらさを手放すことがとても難航する人の多くは、
親からぶたれたことは一度も無い、という人が多い様に思うんです。
肉体的な虐待には、心理的虐待も混然一体となっているのですが、
心に負ってしまう傷の大小、深いか浅いかの話しでは無く、
年月を経て、抱える生きづらさを見つけ、自分と向き合い、ある日パチンとスイッチが切り替わった様に、生きづらさを手放す人は、
身体的虐待を受けた経験がある場合が少なく無い様に思います。
勿論、それが良い、と言っている訳では無く、気が付く、気が付かない、ということに絞ってみれば、気がつく人が少なく無いし、気がついたなら、一気に生きづらさを手放す人も多くいる、という話しです。
心理的に真綿でじわじわと締め上げる様な、肉体的な虐待を伴わない虐待は、
親も子も、長い時間を経ても尚、そこに虐待がある事に気がつかない場合が実に多い、と感じています。
そういった親子関係にある人は、得てして親は自分を愛情深い、と思っていて、
子供は人並み以上に愛情を注がれた、と思っています。
次に述べることは、実に言語化することが難しい部分なのですが、
親は愛情深いと自認しながら、実は心の深部では、自分が子供を利用して、自分の抱える重大な無価値感から目を逸らしている事に、気がついている、と思うのです。
子供は愛情を注がれたと思っていながら、心の深い部分には、疑いを持っています。
それは、意識と無意識の狭間で起きる事で、意識の上では、愛情深い親であり、愛された子供、ということです。
どうして親子共に、知っている、と断言出来るのか、というと、
機能不全家庭は外に向かって閉鎖的です。
オープンな機能不全家庭というものは存在しません。
機能不全家庭には隠し事があるから、閉鎖的なのです。
後ろめたいのです。
だから機能不全家庭には他言無用の秘密があります。
包み隠すから、そうなることは必然と言えます。
親は子供を利用している事を、
子供は親を疑っている事を、
心の深部に押し込めて、愛情深い親と幸せな子供を演じ続けますが、
機能不全家庭には、そこはかとなく、嘘と疑いの匂いが立ち込めています。
そんな状態で、心が晴れる筈がありません。
そんな機能不全家庭の人々は、悩んでいる、と言いながら、時に、幸せである、と力説します。
私は生きづらくないんですが、妻が…とか、
私は愛情を注いだのですが、何故か息子が…とか、
自分は大丈夫だが、関係する誰かの事でカウンセリングを受けに来た、と言う人は少なく無いのです。
まるでひとつのスクリーンにふたつの映画を同時に映している様な混沌とした話しなのです。
像が重なり合って、実に難解です。
そんな時、その人の抱える恐怖の大きさを感じます。
その人の心が裂けている様子が透けて見えます。
言えることは、無意識と意識の狭間に有ることを、意識の上に並べる事が必要だということです。
本人は意識の上では、生きづらくない事になっています。
自分の心は健康で、子供が、妻が、夫が、親が、
関わる人の心が不健康、と言います。
そうなのでしょうか?
その人は、
自分で調べてカウンセリングを受けます。
時間を作ります。
対価を支払います。
そして、こう話します。
自分は苦しく無い、
妻が苦しんでいる、
自分は愛されて育った、
妻はそうでは無い。
この人がカウンセリングの場で、上映する映画は、
自分は愛されて育ったから苦しく無い、妻はそうでは無いから苦しんでいる、自分は苦しむ妻を救いたい。
というストーリーの映画です。
しかし、
私の目には、苦しむ妻を救う夫のストーリーとは別の、
夫自身が苦しんでいるストーリーの映画が透けて見えます。
スクリーン上では、ふたつの映像がダブって見えて、映画の伝えたいことがボヤけてしまいます。
労力と時間を使い、対価を支払った時点では、その人は自分の苦しさに衝き動かされていた様に、私には思えます。
しかし、幼い頃からずっと見て見ぬフリを通して来た自分が抱える生きづらさ、はどうしても認めることが出来ず、
自分は苦しく無い、自分は愛された、
苦しいのは妻だ、幼い頃愛されなかった可哀想な妻だ、というストーリーにすり替えようとしていて、
それが話しを聞き、スクリーンを見つめる者には、透けて見えるのだ、と思うのです。
もうひとつのストーリーを作らねばならないほど、その人は恐怖しています。
ひとつのスクリーン上でふたつのストーリーを展開するほど、その人はふたつに裂けています。
そのことに気がつかないほど、その人は混乱しています。
先ずは自分が、
恐怖していること、
心がふたつに裂けていること、
混乱していること、
それらを、意識の上に並べることが必要だと考えます。
意識のテーブルに並べてみれば、
色んな事が見えて来ます。
テーブルから最初に拾い上げるべきものは、
自分は生きづらい、自分は苦しい、という事実です。
それを認めることが、
自分と向き合う第一歩です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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