腑に落ちた時、「今」を生きられる
私達が触れることが出来るのは「今」だけです。
過去の思い出がどんなに色鮮やかに甦っても、
未来への期待や、未来の不安に、どれ程リアリティが有ったとしても、
過去も未来も私達の思考が創り出す、想念、です。
時間軸の中で唯一触れることが出来る「今」の連なりが、人生、と言えます。
生きづらさを抱える人は、「今」を生きることが苦手です。
幼い頃から、湧き出す感情をことごとく否定される環境に育ちました。
今にも涙が零れそうでも、親が泣くことを望んでいない、と察すると、泣きたい気持ちを心の奥に投げ捨てて、嬉しそうに笑います。
その子にとって「今」は、辛い我慢、とイコールで結ばれます。
誰だって、辛い我慢、は、したくないものです。
その子は、昨日あった楽しかったことや、明日あるであろう楽しいことへの期待に生きる、夢見がち、な子供になります。
その子は「今」を取り上げられて、過去と未来に生きざるを得なかったのです。
更に、否定的な親から、
「お前は昨日こんな失敗をした」と責められ、
「明日こんな失敗をしたらどうするつもりだ」と不安を煽り、
「今」を取り上げられたから、逃げ込んだ、白い夢の世界までも、黒く染め上げます。
その子は、「今」を取り上げられ、逃げ込んだ、過去や未来も黒く染め上げられます。
そんな「今」にも、過去にも、未来にも安心出来る居場所のない子、は、
眼の前の「今」を回避し、
悔やみながら、過去にしがみつき、
不安に執らわれ、未来に怯える、
生きづらい人、になります。
生きづらい人は、「今」を生きられなくなっています。
唯一触れることが出来る「今」眼の前にある出来事よりも、
過去の失敗に執らわれ、未来に失敗する予感に怯えます。
眼の前の出来事、つまり「今」には上の空で、過去のしくじり、や未来の失敗への恐れ、に支配されます。
黒く塗り上げられた過去の失敗の記憶や、現実には訪れてもいない未来の不安に気持ちのほとんどを持っていかれては、「今」を生きることは、とても困難です。
「今」生きづらい人に、過去に執らわれるな、未来を恐れるな、と他者が言っても、
執らわれるものは執らわれるし、怖いものは怖いのです。
生まれた時から、「今」を取り上げられる環境に育ち、嫌という程擦り込まれた感覚は、誰かが諭したり、はっぱをかけたところで、消え去るものではありません。
生きづらい人が、生きづらさを脱ぎ捨てるには、
本人が気づき、
本人が脱ぎ捨てたい、と願い、
本人が自分と向き合い、
本人が決断することしか無い、と思っています。
思い出したくもない過去を掘り返すことが、過去に執らわれている、ということではないか、と言われることもあります。
確かに、幼い頃、肯定的に受け容れられる環境に育ち、責められること無く、不安や恐怖を擦り込まれる毎日を過ごしていないならば、
それこそ過去に執らわれず、「今」を生きることが未来を創る、と言えますが、
「今」を生きることを、取り上げられてしまった人が、
「今」を自分の手に取り戻すには、どうしてそうなってしまったのか、を腑に落とす必要が、どうしてもある、と考えます。
今を生きられないから苦しんでいる人に、
「過去に執らわれるな、今に生きろ」と言うことは、
泳いだことが無い人に、「向う岸まで泳げばいいんだよ」と言うのと同じです。
自分は何に追い詰められ、何に怯えているのか、
そして、どうしてそうなってしまったのか、腑に落ちた時、
生きづらさは、責められ、否定され、拒否される環境を生きる中で、
心に刻みつけた、単なる思い込みに過ぎないことが分かります。
思い込みなど、
いつでも払うことが出来る、
そう、思えます。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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