自分らしく自由に書けばいいじゃないか
先日実家の父に、「文章を書いてnoteというアプリに投稿している。」と話しました。
noteどころか、ネットもアプリもよく分からない80代の父。
でも、目の前の当たり前のことをふと思い出しました。
父は新聞記者から定年後まで新聞社で働いた、書くスペシャリストであったことを。
ニュース記事だけでなく、新聞のコラムを担当したりしたこともありました。
つまり、ニュースなどの事実を伝える記事も意見や感情も含めたコラムも、それぞれ新聞に載っていた経験があります。
あまりに身近なことで、書くことに興味持ってからもその事実を忘れていましたね〜。
ちなみに、父は忙しい仕事人間だったので子供の頃から会話する機会は極端に少なかったです。
もちろん文章の書き方や心構えについてなどの話を聞いたことは一度もありません。
私は話の流れで、自分がまわりくどい表現だったり、繰り返すしつこい書き方をすることを伝えました。
それは私の性格的なものもあるだろうけど、読む人の多様な意見をを想定して断定表現を避けてしまうと分析したことも。
それに対する父の返答は分かりやすい説明ではなかったです。
「目的別だよ。」
「感じ方別。」
「何を書きたいか、何の為に書くのかによるよ。」
この時の私はまだ、自分の為に書いてるくらいの認識でした。
以前の記事にも書いたように後になってから、「一人でも読んでくれた人の心に届く記事」が書きたいんだとを気づきました。↓
父はポツポツと短く話すけど分かりにくくて、何度かこういう意味かと確認を入れました。
それをまとめるとこんな感じ。
・自分がただ書きたいだけなのか、それとも読み手のターゲットが決まっているのかで書き方が変わる
・不特定多数の読み手がどう感じるかは自由であり、反対意見がきても「そんなこと言うな」ではなく、貴重な意見として参考にする
・見えない不特定多数の意見に紛れる批判を心配しても仕方ない
・もし繰り返し批判する人がいればブロックすればいい
・新聞は読みやすい記事を書く訓練を徹底的に叩き込まれるが、noteの場合何万人に対する文章ではないしそんなに心配することない
・読み手のことを考え過ぎると自分の書きたい文章は書けなくなってしまう
・そもそも読みたくない人は読まないんだから、書きたいように書けばいい
・自由に書いてその人らしさが出る文章の方が面白いから、かしこまらない方がいい
当たり前っちゃ当たり前のことを話しているかもしれませんが、私には気づきになったんです。
私は普段から相手の気持ちを察したり、相手が気分を害さないよう気遣ったりする傾向があります。
「あれ?見えない相手にも気を遣い過ぎてた?もっと力を抜いて自由に書けばいいのかな。」
とハッとしました。
周囲の人のことを書く時には気を遣うところもあるけど、基本的に言いたいことを自由に書いているつもりでした。
でも、思った以上に読む人の反応を心配していたのかもしれません。
読みやすいかではなく、不快な思いをさせないかという点において。
私は誰かの批判を恐れている?
誰かを傷つけることを恐れている?
これは日常のコミュニケーションでも言えることだと思います。
気遣いは大切。
相手を怒らせずにスムーズな会話ができた方がいい。
でも、気遣ったところで相手がどう反応するかは相手次第なんですよね。
こちらが気遣ったことでかえって不快な思いをさせてしまうことさえあります。
身近な相手でさえ、相手の言動をコントロールすることはできません。
ましてや、会ったことのない多様な多くの人を相手には当然。
そんな当たり前のことを改めて確認しました。
書くことだけでなく、会話など全てのコミュニケーションに共通することです。
「気遣いし過ぎで自分を消耗させない」
大事なことですよね。
反応なんてコントロールできないどころか予想もつかない。
性格も考え方、受け取り方も千差万別なのだから。
なんだか気が楽になったように感じました。
自由に、もっと自分らしさを出してもいいのかな?
少し肩の力が抜けました。
お父さん、ありがとう。
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