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ただの日記

最近はよく、寝過ぎて頭がいたいです。
なにもないとずっと寝てるので、かるく16時間以上は寝てるんじゃないかなって思います。そんで、寝るのにも飽きたので、こうして文章を書いているかんじです。じぶんって、体力がまったくなくて、すぐ疲れちゃうんですよね。でも、その分ずっと寝てるので、メンタル面はかなり安定しているなって感じです。嫌なことがあった時に、寝れば忘れられるよとか、明日になれば前向きになれるみたいなポジティブなこと言われるたび、「意味わかんねぇな」って全く共感できなかった。忘れられないことって、きっとありますよね。忘れたいんだけど、忘れられないこと、たくさんあったな。こまかいところまで、鮮明に記憶していて、消えないぐらいに重たいもの。思い出すたび、じんわりと痛むんですよね。

物事をポジティブに捉えようとする風潮がむかしから、好きになれなかった。生きてるんだから、良いこともあるし、悪いこともきっとある。もともと生きるのはそこまで得意ではなかった。でも、ふしぎと自分のことだけは好きだったから、じぶんを嫌いになることは、ほとんどなかった。

人間っていうのは、ひとと交わるからこそ、お互いに、傷つけ合ったりする関係性にあるんだと思う。

もともと自分はつよい人間ではなく、むしろ弱いほうではあると思うんですけど、だからといって、強くなりたいとも思わないんですよね。弱いならよわくていいのかなって思う。あまりこういった話をすると、弱いことが、ダサいみたいに捉える人って多いんですよ。異性からどう見られているのか、どうしたって気になるものだし、他人から好かれようと努力したり、その人の期待に応えようと頑張っちゃう生き物だと思うんです。

カッコよくみせたい、可愛くうつりたいって思うことは誰にだってある。自分は、あまり容姿に対するコンプレックスがないので、整形をしようかと悩むこともほとんどなかったけど、(人に対する)「恥ずかしさ」だけはずっとあって、素顔を人前で晒すのが怖いっていう強い脅迫観念を持ったまま、生きてきたんですよね。いまだに克服できないけど..

マスク生活が終わろうとしているなかで、いまだにマスクを取り外すことができない人たちっていると思うんです。じぶんもどちらかというとそうなので、気持ちが痛いほどよくわかるのですが、サングラスをつけて印象を変えてみたり、マスクや帽子、メガネをつけて顔を隠してみたり、することで安心感が得られること。それは、日本人特有なものかもしれないですね。そうやって、周りにあわせて誤魔化しながらどうにかこうにか生きてきたんだなって、過去を振り返ってみて感じた。

どんなに信頼してる人であっても、言えないこと、たくさんありますよね。信頼していないから、言えないのではなくて、じぶんの内に、しまっておきたい、隠しておきたい。だから、言いたくないんだと思うんです。

ひとと直接、言葉を交わすのが苦手だったけれど、こうして文章に書いてみると、素直に自分と向き合える気がする。書くことが好きだから、ではなくて、書くことでしか自分を表現できなかった。だから、自然と書けるようになった、が正しいですかね。

なにか家庭に事情があったり、大きな問題を抱えてるひとと話してみると、国語の成績が突出して良かったり、言語能力が長けてるなと感じるときがある。そのひとは、過去の嫌なことを忘れるために、読書に没頭したり、文章を書くことで、自分と向き合っていたり。人一倍、活字にふれる時間が長いから、成績も良かったのかなって思うんですけど、自分たちが想像がつかないぐらい、バカでかい苦悩を抱えて生きなければいけない状況下で、唯一の救いが、人ではなく、文章を読んだり、書くことであるのは、はたして幸福なのだろうか、それとも不幸であるだろうか。どっちにせよ、自分が自分を救えるという体験は、必ずしもその人が、自分自身を守るための武器があるということを認識づけるキッカケに繋がったことは間違いない、とおもう。

言葉って、簡単に人を傷つけるけど、逆に、ひとを救う手段にもなりうる。好きなひととあって、好きなことを言えて、好きなことができるということ。当たり前にみえるかもしれないけど、きっと当たり前じゃないんだろうな。文章を書いて、救われる人生があってもいいと思った。

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