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【映画感想文】人間はどこまで無関心でいられるか - 『関心領域』監督: ジョナサン・グレイザー

 映画『関心領域』を見てきた。アウシュビッツの隣で幸せに暮らす家族の話と聞いて、その視点で加害者側を描くことができるなんて! と驚いた。

 見る前は『関心領域』というタイトルと独特な設定から、人間が関心を持てる領域は身近なところに限られているという話なんだと予想していた。

 自己啓発の世界では「半径5メートルの人間関係を大切にしよう」とよく言われる。なるほど、それは個人の一時的な幸福度を考えれば妥当かもしれない。だが、利己主義と皮一重なので、気づいたら、知らない誰かの不幸の上に生きている可能性がある。

 例えば、ファストファッションの服を安いからと着ているけれど、それは遠い国の児童労働によって成り立っているものかもしれない。肉や魚はひどい環境で育てられているから安いのかもしれない。娯楽気分で楽しんでいるSNSを経済的に支えている広告は詐欺商品やアダルトコンテンツ、闇バイトに関するもので、日々、被害者が生み出されている。

 消費者として安いものに関心があるのは当たり前。ただ、その当たり前によって、みんな、自分の関心が持てる領域の外側に広がる光景を認識できないからこそ、世界から悲劇はなくならないのだ。

 と、そんなことを言いたい映画なんじゃなかろうかと見る前は思っていた。

 しかし、見たら、全然違った。

 そして、関心領域というものが存在しているはずと信じていた自分のズルさを突きつけられた。

 予告編ではわからなかったけれど、アウシュビッツの隣で暮らしているのはルドルフ・ヘスの家族だった。世界史の教科書的に言えば、この人はアウシュビッツの社長であり、ホロコーストを主導した人物として名高い。

 そんなヘスはアウシュビッツの隣に大きな庭付きの素敵な家を建て、奥さんの夢だった田舎暮らしを実現すべく、一生懸命働いている。休日は子どもたちともよく遊び、いわゆる理想的な父親をやっている。

 ただ、仕事の内容はいかにユダヤ人を効率よく虐殺するかなので、見ている側は不安な気持ちになってしまう。奥さんも友だちや親戚と雑談するとき、ユダヤ人から宝石や服を奪った話を平気な顔でしていたりする。家の隣の塀の向こうから、ユダヤ人の悲鳴が絶えず聞こえ、ユダヤ人を燃やした煙が絶えずのぼり続けいるというのに。

 短絡的に考えれば、彼らはユダヤ人を人間扱いしていないので、たくさんの命が理不尽に奪われているという事実を理解できないように感じられる。

 ここまではわたしの予想通りだった。

 だが、演出として、冒頭から不快な低音がBGMで流れ続けていることがやたら気になる。正直、映像の邪魔でしかない。というか、映像の雰囲気とまったく合っていない。これはどういうことなのだろう?

 ところが、最後まで見ると、ある時点でBGMの不協和音が消えてなくなる。その理由がわかったとき、ああ、このことを表現するために作られた映画なのかと合点がいく。

 要するに、ヘスとその家族はユダヤ人の死に無関心なわけではなかったのだ。自分たちが酷いことをしている自覚はずっとあり、でも、そのことに気づいてしまったら、人間として生きていけない。だから、わざと無関心なフリをすると決めていた。

 とはいえ、いくら心で無関心を演じていても、五感までは制御できない。そのことを表すように不協和音が絶えず聞こえ続けているのである。

 それが限界に達したとき、ラストシーン、物語は現代の我々へと接続されるのだけど、もはや、観客はスクリーンのこちら側で安心などしてはいられない。いかに自分が無関心を装っているか、突きつけられてしまったのだから。

 結局、みんな、本当は知っているのだ。

 自分が買っている商品がなぜ安くなっているのか。ウクライナやガザでなにが起こっているのか。ろくでもない広告を見ないフリして、見たいコンテンツだけ見ているつもりになっている。仕事だからとやっていることが、世の中のためにならないとわかっていても、仕事だからと気にせず取り組む。

 で、自分から発信する情報は人畜無害なつぶやきだけ。半径5メートルの世界で生きているフリをしている。

 たぶん、このことは誰も批判できない。わたし自身もそうだし、むしろ、そうじゃない人を探す方が難しい。

 故に、『関心領域』を見終わったとき、都合の悪い解釈が胸に残ってしまう。そう、ヘスとその家族に同情できてしまうのだ。ホロコーストを主導した極悪人であるはずなのに。

 もし、自分がその立場だったら、果たして拒否ができるだろうか。罪のないユダヤ人を大量虐殺できてしまう絶体的権力者ヒトラーに対して「あなたがやろうとしていることは間違っています」と言えるだろうか。いやいや、言えるわけがない。

 だったら、静かに退職すればいいのだろうか。その場合、すぐさま戦場へ駆り出されてしまうかも。家族と一緒に過ごすことはできない。というか、死んでしまうかもしれない。せっかくナチスの中で出世したのに、あんまりな人生ではないか。

 結果、無関心なフリして、自分とその家族の幸せだけを考えるようになってしまう。

「世界のことって難しいし、どうせ解決できないし、わたしみたいなバカが考えるだけ無駄でしょ。だったら、家族や友だちがハッピーに暮らしていれば、それでいいのかなぁって」

 わたしたちがイオンで買い物をしているとき、イスラエル軍がラファへ空爆し、子どもを含む22人が死亡している。わたしたちが河原でBBQをしているとき、ロシア軍がハルキウの大型ショッピングモールを攻撃し、4人が死亡している。わたしたちが映画館で『関心領域』を見ているとき、すぐそこの入管で誰かが亡くなっているかもしれない。

 作中、ヘスとその家族は目の前にアウシュビッツの壁があるにもかかわらず、不自然なまでに見ようとしない演出がとられていた。それは関心がないから見ないのではなく、無関心であるためにあえて見ないを選んでいるかのようだった。

 これはいまのわたしたちとなにが違うのだろう。

 劇場を後にしたとき、街中にアウシュビッツの壁を感じた。頭の中で不協和音が鳴り響いていることに気がついた。

  



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