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【読書コラム】誰かのせいにするだけじゃ、問題は解決しない - 『責任の生成ー中動態と当事者研究』國分功一郎,熊谷晋一郎(著)

 マシュマロで教えて頂いた國分功一郎先生の熊谷晋一郎先生の対談本『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読んだ。

 一応、國分功一郎先生の『中動態の世界 意志と責任の考古学』は発売当時に読んだ。わたしは大学時代に古典ギリシア語を勉強したわけではないので、中動態という概念に初めて触れ、とても感動したことを覚えている。

 動詞には能動態と受動態があると知ったのは中学3年生の英語で受け身表現を習ったときだった。同時期、国語の教科書で吉野弘の『I was born』を音読し、不思議な感覚を味わった。

ー やっぱり I was born なんだね ー
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
ー I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね ー
 その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。 それを察するには 僕はまだ余りに幼なかった。 僕にとってこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。

吉野弘『I was born』

 わたしもこの僕みたいに文法上の単純な発見として、この世界は自分の意志に基づく行動とそうじゃない行動の二つにわけることができるのだと無邪気に驚いた。でも、たしかに、それでいいのだろうか? と疑問も抱いた。

 子どもがI was bornなんだと言ったとき、親はなにを思えばいいのか。勝手に産みやがってと責められているような気がしてくる。出産は親のエゴであると。

 ただ、その親だって、I was bornなのだ。人間は誰一人、自分の意志で産まれてきたりはしないわけで、そうなると意志っていったいなんなのだろうとわからなくなってくる。

 だから、能動態と受動態の他に、中動態という第三の動詞が存在すると知ったとき、パッと目の前が明るくなった。特に、『中動態の世界 意志と責任の考古学』の冒頭、謝罪に関する説明は素晴らしかった。

 私が何らかの過ちを犯し、相手を傷つけたり、周りに損害を及ぼしたりしたために、他社が謝罪を求める。その場合、私が「自分の過ちを反省して、相手に謝るぞ」と意志しただけではダメである。心のなかに「私が悪かった……」という気持ちが現れてこなければ、他者の要求に応えることはできない。そしてそうした気持ちが現れるためには、心のなかで諸々の想念をめぐる実にさまざまな条件が満たされねばならないだろう。
 逆の立場に立って考えてみればよい。相手に謝罪を求めたとき、その相手がどれだけ「私が悪かった」「すみません」「謝ります」「反省しています」と述べても、それだけで相手を許すことはできない。謝罪する気持ちが相手の心の中に現れていなければ、それを謝罪として受け入れることはできない。そうした気持ちの現れを感じたとき、私は自分のなかに「許そう」という気持ちの現れを感じる。

<中略>

 たしかに私は「謝ります」と言う。しかし、実際には、私が謝るのではない。私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが現れることこそが本質的なのである。

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』19頁

 この本はこの疑問から始まって、ハンナ・アーレントやデリダ、ハイデガー、ドゥルーズ、アガンベンと錚々たる哲学者の考えを辿りながら、最終的に、スピノザの思想を再発見していくという構成だったので、ぶっちゃけ、わたしの理解は追いつかなかった。

 でも、謝罪を能動か受動のどちらかに分類することの困難さは腑に落ちた。

 たしかにおかしい。

 謝罪会見で責任者が真っ暗なスーツを着込み、コンサルタントの監修を受け、しっかり練習した表情とセリフまわしで、自分を見てくれた言わんばかりに意気込んでいる姿を見ると、なんのための謝罪なのだろうと思ってしまう。

 かと言って、世間が騒いでいるから、嫌々な態度で「すみませんっした」みたいに頭を下げられても納得はいかない。

 本人の意志で謝ろうとしても、誰かに謝らされても、謝罪は絶対にしっくりこない。というのも、能動だろうと受動だろうと、そこに損得勘定が見えてしまうから。結局、メリットの大きい振る舞いとして謝罪しているようにしか見えなくて、大事なものがおざなりになってしまう。

 具体的に言うならば、「責任」が果たせていない。意図はなんであれ、自分の行為が問題を引き起こしたのであれば、不可能であっても問題解決のために努力するという態度こそ、謝罪には必要なのだ。そこに保身という考えが入り込む余地はない。

 本来、「責任」って、そういうことを言うのではなかろうか。なのに、気づけば、いまや責任は回避するという文脈でしか語られなくなってしまった。

「そんなことして、お前は責任が取れるのか?」
「これ、誰が責任を取るんだよ」
「責任は負いかねます」

 規約書や契約書には「本サービスの利用によって、お客様及び第三者に生じた損害においては、当社の故意又は過失に起因する場合を除き、当社は責任を負わないものとします」みたいな文言が必ず書いてある。

 一方で、「責任は俺が取る」と問題の発生が想定されるプロジェクトを進めるように指示する上司がいたとして、それもまた無責任なように思える。能動的になっている時点で違和感がある。だったら、問題が起きないようにしなきゃダメだろって。

 従って、能動態でも受動態でも「責任」を扱うことは難しい。

 果たして、「責任」ってなんなのだろう。そのことを検討する上で、能動態でも受動態でもない中動態がヒントになるのではないか? というアプローチで、國分先生と熊谷先生が対談をし、『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』という本にまとまっている。

 この中で熊谷先生が専門にされている当事者研究が重要な役割を果たしている。最近、盛り上がっている分野であり、様々なところで目にはしていたけれど、そういう研究なのかと発見があり面白かった。

 当事者研究という言葉のイメージから、わたしは勝手にそれが自分史を作るようなものと誤解していた。自分の視点から自分のことを語り、主観的にはそういう風に感じていたんだと伝えることが目的なのだと。故に、客観性がないんじゃないかと怪しんでもいた。

 しかし、そうじゃないらしい。当事者が本人の言葉で語ることを通して、まわりの人たちがそういうことだったのかと気がついていくところに肝があるというのだ。そして、当事者が当事者たる所以を当事者だけに帰属させる不条理が浮かび上がってくる。

 どいうことか?

 例として、ASD(自閉スペクトラム症)をめぐる議論を熊谷先生はあげていた。

例えば、横暴な上司との間にコミュニケーション障害があるとか、問題のある職場のなかで周囲とのコミュニケーションがうまくいかないとか、家父長的でDV傾向のある夫とのコミュニケーションが取りづらいなど、コミュニケーション障害といっても、本人より環境の側にこそ変わるべき責任がある場合はあります。にもかかわらず、コミュニケーション障害を永続的に私の側に帰属される性質だとしてしまうと、そうした状況におけるうまくいかなさがすべて私の側の責任になってしまいかねません。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』53頁

 最近は「コミュ力」なんて言葉が使われたりもするので、コミュニケーションがうまくいくか否かは個人の能力次第であるかのような認識が広がっている。でも、コミュニケーションは一人じゃ成立しない。必ず相手がいる。だとすれば、チームプレイと見做すべきではなかろうか。

 学校のクラスで浮いている子がいるとする。でも、見方を変えれば、他の子たちが沈んでいるとも解釈できる。バリアフリーが進むことで車椅子利用者の活動域が広がるように、環境の変化によって、コミュニケーション障害も和らいでいくのかもしれない。

 また、当事者とそうじゃない人たちの間で、言語感覚が異なることも多いらしい。なのに、英語なら英語、日本語なら日本語で、大きなくくりとしては共通言語で会話しているため、意思疎通しているつもりで無自覚にズレが広がることもしばしばなんだとか。

 インタビュー調査や尋問などで、聞き手が内容をまとめた場合、このズレは致命的になってしまうかもしれない。

 このことについて熊谷さんは「ダルク女性ハウス」の施設長・上岡陽子さんの話を紹介していた。

いわゆる「非行少年」に、「なぜ薬物を使ったのか?」と聞くと、「暇だったから」と答えることがあるそうです。そうすると多くの大人はどうしても「暇だから薬物をやるなんて!」「とんでもない。けしからん‼︎」と思ってしまう。でも、大人はしばしば、少年が使う言葉の意味を取り違えます。上岡さんは、「非行少年」は単に悪ぶってそう言うのではなく、「暇」という言葉で、地獄のような苦しみを表現しようとしているのだと。そしてそこから救われようと、いわば祈りの行為として非行に走ったのだ、と言われていました。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』124頁

 言葉はいつだって不完全。さも確固たる存在であるかのような顔をしているけれど、実際はその意味する内容は常に移り変わっていくし、思っている通りを言い表すことなんてできやしない。その前提を忘れてしまいがちなわたしたちだからこそ、当事者研究でその人がその言葉をどういう意味で使っているか知ることはとても重要だ。

 そして、そのような視座と交わることで、当たり前のように使われている「意志」や「責任」という言葉が実は不確か極まりないものに見えてくる。

 どうやらハンナ・アーレントも「意志」の正体を探ろうとしていたらしい。國分先生はこんな風に語っている。

アレントは、おそらく『ローマ人への手紙』を書いたパウロが意志概念の発見者であろうと言っています。アレントが依拠しているのは、パウロが律法について述べた有名な箇所です。「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」といわなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(『ローマ人への手紙』7-7)。アレントはこんなふうに解釈します。律法を与えられた人は、善を為そうとする。つまり、むさぼらないぞと意志する。しかしそのように意志することは必ず「でもむさぼりたいじゃないか」という「対抗意志」を生み出す。意志はかならず分裂していて、律法を実行しようとする意志は必ず罪を犯そうとする意志を活動させる。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』107頁

 これによれば、律法によって、禁止事項が定めたられたとき、人はそれをしないという「意志」を持つようになったという。だが、最初からする気のないことであれば、わざわざ、しないという「意志」を持つ必要はない。つまり、「意志」は禁止事項をしたいという「対抗意志」とセットで現れるというのだ。

 ダイエットをしようと夕飯を食べないと「意志」することは、本当はお腹いっぱいになりたいという「対抗意志」の裏返し。節約をしようと「意志」することは、本当はたくさん買い物をしたいという「対抗意志」の裏返し。

 なにかしらの「意志」を持った瞬間、自動的に「対抗意志」を表明していることにもなってしまうのが「意志」という言葉の特徴なのだろう。

 こうして「意志」によって法律を守らせることを通して、罪を犯してしまった人を裁く際、仮に法律を守る「意志」があったと供述したとして、お前には「対抗意志」もあるじゃないかと責任を追求することが可能になった。

 ある意味、社会を回していく上で、「意志」という言葉は手続きの必要性から生まれた概念だったのかもしれない。ただ、長い年月が経つにつれ、無自覚なまま、「意志」という言葉が使われるようになった先の現代では妙な逆転現象が起きている。

本当は「意志」があったから責任が問われているのではないのです。責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意志の概念によって主体に行為が帰属させられているのです。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』116頁

 この構図は恐ろしい。というのも、ある問題が起きたとき、責任取らせるため、誰かに「意志」を持たせようとする力が働くからだ。

 そういう被害に遭うのはちゃんと警戒をしなかった自己責任であるとか、そんなことも知らずに生きているなんてあり得ないとか、簡単に批判ができてしまう。そして、当事者がどのように説明をしたとしても、それが問題を起こす気はなかったという「意志」の表明である限り、本当は起こしたかったのだろうという「反抗意志」を読み取られ、永遠に批判が続けられてしまう。

 堂々巡りの果て、いまや責任を取るということは人々の前から姿を消す以外に道は残されていない。そんな事態に耐えられる人間はいないから、みんな、責任を回避する文脈でしか使えなくなってしまった。

 このままじゃいけない。そう考えたとき、一度、「意志」を捨てるという選択が生まれてくる。そして、その手段として、能動態でも受動態でもない中動態に國分先生はフォーカスを当てる。

國分 <中略> 中動態といえば何か無責任な印象を受けても仕方ないのに、責任について考えていくと、むしろ中動態的なものがなければとても責任を引き受けるに至ることができないことがわかってくる。つまり、詫びる気持ちが、自分を場所として、過去の振り返りを通じて過去との連続性のなかで出てきたときに、責任ということがはじめて言えるのではないか。つまり過去を「前にして」、それに応答しようとするとき、はじめて責任の気持ちが生まれてくる。
 むしろ今、世の中で言われている「責任」というのはいったいなんだろうという気がしてきます。

熊谷 ほんとうにそうですね。
國分 いったい、世の中で「責任」とよばれている「あれ」は、なんでしょうか。
熊谷 なんでしょうね。
國分 責任とは違う感じがしてきましたね。
熊谷 責任とは違う何かを、そう呼んでいる。
國分 いわゆる犯罪者に対して、「責任を取れ」と約束事のように言いますが、中動態過程を通じてはじめて責任を引き受けることができるのであれば、それはむしろ責任を取らせない方向に人を向かわせているのではないか。非常に不思議な感じがしますが。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』401-402頁

 もはや既存の「責任」という言葉は機能を果たしていない。なんなら形骸化し、「責任を取ればいいんでしょ」と罪を犯す根拠にだってなりかねない。

 死刑になりたくて人を殺したと証言する犯人がいる。その言葉を我々が使っている言語感覚でそのまま解釈することはできないけれど、論理構造として、死刑になることが責任を意味していると推察される。かつ、死刑になりたいと意志を述べることで、本人の中では整合性がとれてしまっている。

 法律はこのような発想をする犯人に対して、とことん無力である。死刑が殺人に対する抑止力となるのは死にたいと思う人などいないという前提に立っている。死にたい人にとって、永山基準は「3人殺せば国に自分を殺してもらえる」という等価交換になってしまう。

 あくまで個人的な感想だけど、そんな状況、わたしは許せない。だったら、なぜ罪を犯したのか、わざわざ意志を述べなくていいと怒りを覚える。

 あとがきで熊谷先生はこう書いている。

そもそも、相手を傷つけてしまった自分の行為に関し、「それは自分の意志でやったことだ」という解釈で思考停止し、生い立ちなどを含め、行為に先立って存在していたさまざまな原因群に思いを馳せることさえもしない加害者のことを、周囲の人は、責任を果たしているなどと感じられるだろうか。二〇一六年に起きた相模原殺傷事件の犯人の裁判所での言動が、少なくとも私にとって許しがたかった理由の一つは、彼が自分の行為について、自分の意志で行ったということを認めたからではない。いや、むしろ彼が過度に、自分の意志にのみ帰属させたことが、許しがたかったのだ。

國分功一郎,熊谷晋一郎『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』427頁

 我々は自分たちが意志なんてものでコントロール可能な存在じゃないと、その弱さを認めるところから始めなくてはいけない。弱いからこそ、どんなに気をつけていても意図せぬ問題が起きてしまうのだ、と。そして、弱いもの同士で早いうちから補い合っていくことができれば、悲劇を減らすことができるのではないだろうか。

 すぐに変わることはない。でも、少しずつ変えていけば、いつかは誰も責任が取れない問題の起こらない社会が実現するかもしれない。

 國分先生と熊谷先生の対談を読み、そんな途方もない夢を見てみたくなった。




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