【映画感想文】信じるものしか救わないセコい神様拝むよりは - 『ウーマン・トーキング 私たちの選択』監督:サラ・ポーリー
子どもの頃、B'zが最強に人気でベストアルバム『B'z The Best "Pleasure"』をわたしも買った。好きとか嫌いとかそういう問題ではなく、必修科目という感じで手にしたことを覚えている。
イントロがめちゃくちゃ長い『LOVE PHANTOM』だったり、サビ前の「ねえ、そうでしょー?」という呼びかけが印象的な『Easy Come, Easy Go!』だったり、大ヒットしているのが納得の名曲が並ぶ中、『愛のままにわがままに 僕は君だけを傷つけない』は際立って印象的だった。タイトルが異常に長いことに加えて、宗教的なニュアンスのある歌詞が小学生ながらゾクゾクっときた。特に、
この一節は強烈だった。散々聞かされてきた「信じるものは救われる」のフレーズに含まれる欺瞞が鮮やかに暴かれ、神様とはなんなのか、考えざるを得なかった。
あのとき、モヤモヤっとした気持ちは抱きつつ、でも、答えを出すにはあまりに幼く、そのままやり過ごして二十年が経ってしまった。そして、今年、映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』を見て、再び、わたしの前に同じ問題が立ち現れた。
実話を基にしたという物語は相当にショッキング。アーミッシュを思わせる自給自足の宗教共同体で長年に渡りレイプ事件が発生。女たちが被害を訴えるも、男たちは悪魔の仕業や妄想など言葉巧みに誤魔化し、事件の隠蔽し続けていた。しかし、あるとき、少女たちが犯人を捕まえることに成功。その口から多くの男たちが関わっていたことを聞き出し、村中の男たちは逮捕される。だが、二日後には保釈されてしまうという。そのタイムリミットまで、女たちはこれからのことについて話し合う。赦すか、闘うか、それとも去るか。
男たちの手口は卑劣も卑劣。牛用の麻酔でターゲットを眠らせ、反抗に及んでいたのだ。被害者はPTSDになったり、妊娠したり、それぞれ心と身体はボロボロだった。また、閉鎖的な村において、発言権を奪われた女たちは辛さを吐露することも許されず、その辛さは計り知れない。なのに、どうして、これほどまでの苦しみに耐えられたかと言えば、ひとえに神様を信じていたからだった。
すべてが判明したとき、女たちは男たちに怒ると同時に、これまで信じてきた宗教に対する信頼も揺らぐことになる。こうなってしまっては以前と同じように生きていくことなどできるはずがない。人格は破壊され、尊厳は踏み躙られてしまったのだ。
信じていたものを信じられなくなる絶望の中、それでも、女たちはこれからを生きていくためにどうするべきか話し合う。そして、その中で何度も、男たちに蹂躙された女たちを助けてくれなかった神様なんて信じる必要があるのか、究極の問いが繰り返される。
この映画は特殊なシチュエーションが描かれているけれど、本質的には、権力者に人格を否定され得るすべての人に関係している。というのも、男たちは家父長制における父親像そのものであり、未だ日本にも蔓延り続けるハラスメント加害者たちとそのあり様はなんら変わらないのだ。
東京オリンピック2020における電通の支配構造にしろ、ビッグモーターの組織ぐるみの不正にしろ、ジャーズ事務所の性加害問題にしろ、すべては家父長制の絶対的権力者による支配が原因である。人権意識が高まったことで、ようやく変わりつつあるけれど、その人権意識すら「ルール守りましょう」と圧力をかけてしまうあたり、この状況はしばらく続くのだろう。
この点、人権についての誤解があるように感じる。そもそも人権とは平和なものではない。なんなら、人権とは闘争であり、平和と対極に位置するものである。なぜなら、平和とは誰も文句を言えない権力者による抑圧が機能している状況であり、人権を侵害して初めて成立するものだから。そして、人権を守るというのはその抑圧と闘うことなのだ。少なくとも、権力者の作ったルールに従う形で人権が担保されることはあり得ない。
そのため、人権保護優先を標榜しているジャニーズ事務所の会見で井ノ原快彦が「ルールを守りましょう」という人権意識の低い発言を誇らしげにした姿は異様だった。もちろん、単に勉強不足なだけなのかもしれないが、一方で、ジャニー喜多川の洗脳がそれほどまでに徹底していたという見方もできるんじゃないかと恐ろしさを感じた。
当たり前だけど、12歳でジャニーズ事務所に入った井ノ原快彦少年が最初から家父長制の権力者的な考え方をしていたとは思えない。その後、47歳の現在に至るまでの35年間で教育された結果なのだろう。してみれば、男の邪悪さというものは生まれ持ってのものではなく、社会で生きていく過程で後天的に身につくものであると仮定が立てられるかもしれない。
これこそ、女たちの選択を主題としている映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』の重要な裏テーマである。
かつて、ボーヴォワールは『第二の性』で、
と、有名な格言を残している。いわゆる社会的性差としてのジェンダーを端的に言い表しているわけだが、実は、これとまったく同じ構文が男にも当てはまるのではないだろうか。つまり、人は男に生まれるのでない、男になるのだ、と。
作中、女たちは去る決断をした場合、男の子はいくつまで連れていくことができるかを議論する。具体的に十二歳以下の男の子は連れていくという案が出たとき、一人の母親が「うちの息子は十三歳になったばかり。なぜダメなの?」と反論する。
これは非常に興味深い問題だ。もし、女を傷つける男なるものが生物的な要素だとしたら、ある年齢を境に区切ることに正当性があるだろう。でも、それが社会的なものだとしたら、年齢ではなく女を傷つけていいという考えを身につけるか否かにフォーカスを当てるべきである。そして、ある年齢に達した男が全員レイプをしているわけではない現実を考えれば、どちらの考え方がもっともらしいかは一目瞭然なのではないか。
わたしは「男はそういう生き物だから」という言葉が嫌いだ。性的に不誠実であるとき、そのような言い訳をされると腹が立って仕方ない。別に覗きをしなくたって、セクハラをしなくたって、強引に性的な関係を迫らなくたって、生物として人は生きていけるんだもの。
恐らく、映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択』は女たちの話し合う姿だけを見せることを通して、男たちにも話し合うことの必要性を訴えている。
果たして、男はこのままの男でいていいのか。よりよい社会を目指すためには捨てなきゃいけない男の性質があるのではないか。だいたい男とはなんなのか。これまでの常識やルールに縛られることなく、男たちも真剣に考えなくてはいけない。
古代アテナイの喜劇作家アリストファネスは『女の平和』で、セックスストライキをすることで男たちの戦争を止めることに成功する物語を書いている。とてもよくできた傑作ではあるが、男と女が対等な関係にあるからこそ成り立つ点で、現代からするとフィクションも甚だしい。でも、ジェンダーについて、各々がしっかり考えることができれば、再び、アリストファネスのユーモアを笑える日がやってくるかも。
そんな遠い未来を夢見ることで、解決困難に思える眼前の人権問題について対処するだけの落ち着きを我々は取り戻せるんじゃなかろうか。なんてことを思った。
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