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小説シリーズ

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2021年6月の記事一覧

ランドマーク(49)

ランドマーク(49)

 巡礼者か、はたまた山伏か。母は残りの行程を計算し、途方に暮れた。普通に歩いたって、登りならここまで一時間半はかかる。下りだとしても一時間。今は満身創痍の祖母を連れているから、それよりももっとかかる。日が暮れるまでだいたいあと二時間。雨は止みそうにない。この雨足じゃ、低体温症の危険性だってある。ツェルトくらいもってくればよかったと、母はザックカバーに付いた水滴を払いながら後悔した。留まる選択肢がな

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ランドマーク(50)

ランドマーク(50)

 父は当時から〈塔〉の開発に携わっていた。気圧、気候、輸送の利便性、周囲の人口。様々な要素を加味し、建設予定地は南西の島嶼、または太平洋側の山間部に絞り込まれていた。その内の一つがこの山。建設予定地に決定する約二年前、父は視察に訪れていたのだった。

 調査委員と共に、父は祖母の元へ駆け寄る。母は安堵したが、膝からくずおれることはなかった。登山家の娘としての矜恃があったのだろうか。祖母は詳しい事情

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ランドマーク(51)

ランドマーク(51)

 ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな

 これはこの街の先人が残した詩。わたしが登っている、この山についてのものらしい。わたしには、この詩の意味がいまいち理解できなかった。ふるさと、という言葉にも馴染みはなく、ましてや有り難みを感じたことなんてない。ふるさと。やわらかい響きに懐かしさを覚えるが、その先にはなにもなかった。経る里。これが語源の一つと考えられている。つまり、

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ランドマーク(52)

ランドマーク(52)

「この前、屋上よく行くって言ってたじゃん」
「ああ、だったっけ」
「デブリの日」
「たぶん」
「俺も屋上行きたかったんだけどさ、鍵、ないし」
「わたしは持ってる」
「持ってんのかよ」
 と舘林はやるせなさそうにわざとらしく溜め息をついた。
「じゃなきゃ屋上、行けないじゃん」
「職員室から持ち出してんの」
「合鍵」
「海良って、賢いんだな」
「ん」
「登る?」
「登る」

 パーティーは二人になった

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ランドマーク(53)

ランドマーク(53)

 物言わぬタンパク質とリン酸化カルシウム、その他いくつかの化合物からなる生体組織。そんなものに執着しているのは、我ながらばかばかしいことだと思う。ロケットやペンダントはわたしに似合わない。砂漠に落とした一粒のダイヤ、わたしはもとから見つけるつもりなんてなかった。どこかで区切りを付けたかった。歳を重ねるごとにぼやけていく父の輪郭を追いかけるのは、もうやめにしよう。
 これがわたしの目的。舘林は?

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ランドマーク(54)

ランドマーク(54)

 はなたば。いちめんのはなたば。そのすべては手折られたもの。わたしのために咲いたわけじゃないのに。みんながみんな、わたしに顔を向けて、笑っている。笑っている。わたしはわたしが笑っていることに気付く。幸せだ。なんてわかりやすい幸せの比喩。くだらないけれど、わたしはちゃんと幸せだった。ずっと続けばいい。ほんとうか? ほんとうってなんだ? どこからがわたしの感情なのかわからないな。デンドロビウム、バラ、

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ランドマーク(55)

ランドマーク(55)

 当初の予定よりもはるかに試験回数は増えていた。理由はもちろん、わたしには知らされない。そう決めたのは父なのか。わたしの身を案じてのことなのか。わたしにはさっぱり分からなかった。だって、父さんとはずっと、わたしがこうなってからずっと、顔を合わせることさえしていない。おそらく向こうはわたしの姿を認めているだろう。わたしが気付かないうちに、一方的に。病室にカメラがあるのか、誰かのARグラスを通じてなの

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ランドマーク(56)

ランドマーク(56)

 わたしはプールの中にいる。わたしは潜水服を着ている。酸素ボンベはもちろんなし。深さは、たぶん四十メートルくらい。普段はダイビングのトレーニングに使用されているこの施設は、打ち上げまでの期間貸し切りだ。わたしのための貸しアパート。底まで潜っても暗くはない。照明がわたしを照らし続けてくれるから。それに、ガラス越しに人の姿を認めることだってできる。向こうで母が手を振っている。わたしはそのガラスまで一気

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ランドマーク(57)

ランドマーク(57)

 サメって、そういえば泳ぎ続けないといけないんだっけ。マグロとかもそう。回遊魚に分類される魚は、エラを動かして酸素を取り入れるために泳ぐ。止まったら死んでしまうなんて、わたしからしたらまさに息苦しくてしかたない。常に強迫観念に駆られていたとしたら、どこかの時点で頭がおかしくなってしまうだろう。
 でも、サメにとっては生まれてこの方、あたりまえのことなのかもしれない。わたしたちが普段呼吸や瞬きを無意

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ランドマーク(58)

ランドマーク(58)

 水面に顔を出すと、プールサイドにはだれもいなかった。斜め上のガラス越しに、誰かがわたしを見ている。遠くて、誰なのかはよく分からない。研究員の名前なんて覚えられるわけない。覚えたくもない。母がいて、どこかに父がいる。あとは全員脇役。わたしにとっては他のだれもが、物語に関与しないキャラクターにしか見えない。だからどうでもいい。脳の記憶領域を割くのは、なるべく大切なことだけにしておきたかった。わたしの

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ランドマーク(59)

ランドマーク(59)

 目が冴える。目を開いてみたところで、暗闇の中にはなにもない。ただ、わずかに揺れるカーテンの気配。そのうちにわたしは、視覚に頼ることをあきらめた。目を閉じる。瞼の裏には、昼間のプールで感じた照明が焼き付いていた。このところ、ずっとよく眠れていない。わたしは眠りたいと思っているのに、意識がそうさせてくれない。脳はギアを落とすことなく回転し続け、わたしに思考を要求してくる。今日のこと。プールに潜って、

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ランドマーク(60)

ランドマーク(60)

 わたしは小さいころ、両親とよくけんかをしていた。理由は、誰にだってあるような些細なことだ。洗濯物をたたまなかったとか、夕ご飯を残しただとか。そうして勝てるはずもない言い争いに挑み(おそらく両親は争いとさえ思っていなかっただろう)、わたしは敗北した。そしてわたしは泣いた。言語では勝てないからこそ、非言語的コミュニケーションに訴えるしかなかった。さんざん声を上げて泣き、わたしはどれだけ不幸せなんだろ

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ランドマーク(61)

ランドマーク(61)

 はじめて恋人ができた日のこと。恋人なんて表現はいまでもすこし照れくさい。ARを使ってかくれんぼをしたり、警察官ごっこをしたり。小学生のわたしにとって、それはただの遊び相手。だから、好き、という感情がいくつもあることを、わたしはちっとも理解していなかった。好きだよ。そう相手が言う。だからわたしも、好きだよ、と返した。あの時のわたしは、どんな歌を歌っていただろう? ラブソングを大きな声で歌いながら、

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ランドマーク(62)

ランドマーク(62)

 おはよう。目覚ましよりも先に瞼をひらいた。目の前がキラキラしていた。なんとなく高揚している。不意に眠りは訪れて、意識のたどり着く先は朝。レースのカーテンを勢いよく開いて、わたしは光を感じる。いつかわたしが大きく変わってしまったなら、この光も必要なくなってしまうんだろうか。深い海にひそむ怪物のように、朝日を神話上の存在として崇めはじめるだろうか。まあ悪くないな。残念なのは、その素敵なわたしの姿を目

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