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ランドマーク(58)

 水面に顔を出すと、プールサイドにはだれもいなかった。斜め上のガラス越しに、誰かがわたしを見ている。遠くて、誰なのかはよく分からない。研究員の名前なんて覚えられるわけない。覚えたくもない。母がいて、どこかに父がいる。あとは全員脇役。わたしにとっては他のだれもが、物語に関与しないキャラクターにしか見えない。だからどうでもいい。脳の記憶領域を割くのは、なるべく大切なことだけにしておきたかった。わたしの中身がぜんぶ別のものに入れ替わってしまっても、それを頼りに、わたしがわたしらしさを取り戻せるように。
 だからわたしは、他のだれとも話をしなかった。自らの意志で内向的になろうとした。いままでの思い出が塗り潰されてしまうくらいなら、新しい記憶なんて必要ない。なるべく単調に。ニューロンが新調されないように。可塑性を利用して、くりかえしくりかえし、似たような電気信号を送る。死ぬ準備をしているみたいだ、とわたしは思った。その夜のことだった。どこに行ったって、わたしが眠るのは似たり寄ったりの無菌室。量産型の棺桶。きっとよく燃えるよ! わたしは笑いながら、ベッドへ思い切りジャンプした。衝撃は分散されて、あっというまにゆりかごへ。

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