「四畳半フォークと呼ばれた時代」昭和の歌
「僕の昭和スケッチ」イラストエッセイ224枚目
この記事は、先日の「フォークギター1本あれば/昭和の歌」の続きです。
大学紛争や反戦運動も終わりを告げた頃に僕らは上京した。
わずか数年前の事なのに、若者たちが引き起こした新宿フォークゲリラ(1969年)などまるで嘘のように静かな新宿の街だった。駅の構内にはTVで見たような反戦ビラを持った若者の姿はなく、京王デパートの前に手製のネックレスや安っぽい革製品を売るフーテン*が座っていた。流行りのロングベストを着て。
さて、一世を風靡した反戦フォークに変わってこの時代に登場したのが、都会に暮らす若者達の孤独な日常を歌うフォークだった。「集団フォーク」から、「個人的なフォーク」へと、時代と共に歌は変わっていた。
歌詞の中から、日本や世の中、戦争という言葉は影を潜め、「僕」や「君」という言葉が増えていく。
ユーミンが「四畳半フォーク」と名付けたのは、正に言い得て妙だ。
底意地の悪い言い方をすれば引きこもりフォークとでも言うのだろうか。
一方で、女性の大学進学率の向上に伴い、都会で一人暮らしを始める女性の数が飛躍的に多くなる。それは同棲時代の温床となり、この新しいフォークと不思議な形で同居し始める。
神田川
「あなたは もう 忘れたかしら 赤い手ぬぐいマフラーにして」
と始まる南こうせつの名曲「神田川」*。
同棲も「二人の愛の形」というより、まるで「孤独の棲家」のように歌われる。
だから、歌の中の二人は愛し合っているはずなのに
「貴方は私の 指先見つめ 悲しいかいって きいたのよ」
と綴られる。これは、どう聞いても愛情表現ではない。
けれど、アラベスクのように悲しみを綴るこの歌は僕らの胸を打った。
神田川はまさにこの時代の写し鏡のような曲だ。
傘がない
ご存知井上陽水のヒットナンバー「傘がない」*。
やや難解な歌詞と言われるが、傘を象徴的な意味と考えないで、素直に聞いていれば判りやすい歌だ。
「都会では自殺する若者が増えている」
という酷く暗いイントロで歌は始まる。
全く、前代未聞なくらい暗い(笑)
そして、延々と傘がないことを嘆く。
社会で何があっても、どんなに君の事が好きでも、僕にとって大事なのは雨の中を出かけるための傘がない・・・濡れたくないんだよね、僕。という歌だ(笑)
だから、結局は外へ出ない。
雨の中を濡れそぼっても、君に会いにいくという熱情のないこの青春群像。これも正に時代の移し鏡のようで、だからこそ多くの若者達の共感を呼んだ。それは、確かに一つの現実だった。沢山の若者達が、陽水の歌に女々しい自分を聞いていた。この醒めた若者達の登場は、少しずつ姿を変えながら、このまま平成、令和へと続いていく。
一方で、そんな都会のアパート暮らしの、決して明るいとは言えない日常(笑)を抜け出して吉田拓郎が新しいフォークを開花させる。
旅の宿
忘れられない武道館コンサート/1972年。
その夜、「新曲です」と吉田拓郎が披露したのが、「旅の宿」*だった。
「浴衣の君は 尾花の簪 熱燗とっくりの首 つまんで
もう一杯いかがなんて 妙に色っぽいね」
会場が大興奮となったのを今も覚えている。
僕も、もちろん立ち上がって拍手した(笑)
この曲は、僕の中ではもはやフォークという括りを超えていた。
やはり後にヒットする「夏休み」や「リンゴ」もこの夜に歌われた。
僕らはその夜武道館に居合わせた見知らぬ若者と、同じ時間、同じ感動を共有する幸福に包まれ、熱狂した。
素晴らしいコンサートだった。
その夜披露された曲を収めたアルバム「元気です」は、その後ヒットチャートを瞬く間に駆け上り、吉田拓郎のベストアルバムとなった。
僕は、この時期の吉田拓郎が一番好きだ。
他にもいい曲はいっぱいあった。
岬めぐり なごり雪 学生街の喫茶店 赤色エレジー・・・
みんな、どんな曲が好きだったのだろう?
この記事を読んでいるあなたは、どんな曲が好きだったのだろう?
それは、僕と同じだったり、違っていたり、、、きっとするのだろう。
けれど、みんな、フォークソングが好きだった。
・・・そんな時代だった
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