【自己紹介】なぜ看護師から助産師になったのか
こんにちは。
助産師のえびちゃんです😊
世田谷区桜新町で、出張とオンライン相談専門の助産院SAKURA SALONを運営しております、助産師の高橋さおりです。
旧姓がえびはらなので、「えびちゃん」と呼んでいただけると嬉しいです😊
Instagramもフォローいただけると嬉しいです。
前回の記事で自己紹介をしていますので、ご興味がありましたらお読みください。
助産院SAKURA SALONとは?
助産院SAKURA SALONは2023年5月に世田谷区桜新町で開業しました。分娩は取り扱わない、出張&オンラインで産前産後ケアを担います。
強みは、
つわりや腰痛や不眠などのマイナートラブル、つまり妊娠に伴う不調に対するケアです。
特に薬膳などの食養生にご興味のある方にオススメです。
一人目の妊娠時に、暗黒のつわり期を経験して、そこから東洋医学を猛勉強し始めたのがきっかけですが、詳しくはまた後日の記事で書きます。
どんな方におすすめかというと
✅不調を抱えながら妊娠期を過ごしている方
✅妊娠産後の体質改善、食養生を知りたい方
✅仕事をしながら妊娠期を過ごしている方
✅海外出産をする方
✅上の子を海外で出産し2人目以降を日本で出産する方
✅上の子を日本で出産し2人目以降を海外で出産する方
✅転勤族で引越しをする可能性が高い方(日本国内、海外どちらも)
✅同じ人に継続的に相談したい方
✅母乳育児を頑張ってみたい方
などの相談を強みとしています。
助産院SAKURA SALONでは東洋医学×西洋医学のアプローチで、日本国内外で妊娠産後を過ごす方の、不調改善や母乳育児、育児相談などを承っています😊
オンラインとリアル両方で対応していて、
オンラインでは日本、海外在住日本人の方の相談や講座を、
リアルでは、世田谷区界隈にお住まいの方、一時帰国で東京に滞在する方などに、妊娠産後の不調改善や元気になるための薬膳ごはんの提供、リフレクソロジーの施術なども行っています。
私自身、一人目は日本で、二人目はアメリカで出産した経験があります。アメリカ在住時は現地にお住まいの妊娠産後の方の相談を受けたり、訪問したりしていました。
オンラインでは、北米(アメリカ、カナダ)、ヨーロッパ(フランス、イギリス、ドイツ)、アジア(中国、カンボジア、日本)にお住まいの方々の相談を受けたことがあります。
いつでも個別相談を承っていますので、日本在住、海外在住かかわらずお気軽にご相談ください。
世田谷区界隈にお住まいで、マイナートラブルや産後お疲れの方は施術をお申し込みください😊
さて、今日は、私が看護師から助産師になろうと決断した時の話を書きます。
私、大学卒業後就職する時は、看護師スタートだったんです。
大学生の時も、看護師になった後も、助産師になりたいとは一度も考えたことがなかった私が、なぜ助産師になろうと思ったのか。
看護師で働いていた時、何を感じ、何を考えて助産師の道を選んだのかを書きます。
助産師になろうと決断した年齢
私が助産師になろうと決断したのは27歳の時。
看護師、臨床5年目の春でした。
大学院に進学したので、助産師のスタートは29歳です。
でも実は、看護大学在学中や働きながら、助産師になりたいと思ったことはなく、急に思い立ったという状況でした。まさか、助産師に転向するとは…自分が一番驚きました。
そもそも看護師を目指したきっかけ
私が看護師になりたいと思ったきっかけは高校2年生の頃。
同居していた祖父を突然事故で亡くしました。
身近な人の死というものを、その時初めて経験しました。言葉で表せないほど悲しく、家に帰れば毎日お葬式のようで、祖母が塞ぎ込んでしまい、祖母まで死んでしまうのではないかと心配になったくらいです。
私の祖父は兼業農家で、お米を育てていました。父は農家を継がなかったので、家族で農業をできるのは祖父と祖母のみ。祖父が事故に遭ったのは、ちょうど田植えを終えたその日でした。なので、その年のお米を育てなくてはなりませんでした。
親戚の方が全力でサポートしてくださり、猛暑の日も、天候が悪い日も一生懸命お米を育ててくださいました。
その年に収穫された新米は、それはそれは美味しくて美味しくて、泣きながら食べた記憶があります。
ちなみに、今も親戚の方がうちの土地でお米を作ってくださっています。助産院SAKURA SALONでお出しするご飯は、地元茨城のお米です。土鍋で炊きお出ししています。粒がしっかりしていてとっっても美味しいですよ〜!(自負)
話を戻します。
家族が辛い時に、親戚の方や高校の先生、友人など、周りの人に本当に支えてもらいながら、少しずつ少しずつ前を向けました。周りの方には、感謝をしてもしきれません。
自分が支えてもらった分、今度は私が周りの人の力になりたい。そう思ったんですね。
高校生の頃、青少年赤十字のボランティアをしていた私は、献血や骨髄バンクの呼びかけやアメリカ赤十字主催のリーダーシップ研修に参加したりと、赤十字活動に興味がありました。そのため自然な流れで、赤十字の看護師になりたい!赤十字の看護大学に進学しよう!と決めたのです。
余談ですが、車の免許を取る時も、マニュアルを取りました。
なぜかというと、当時、近所に住む親戚の方々は、マニュアル車の軽トラに乗っている方が多かったんですね。近所の方にもしものことがあった時、田舎なので、救急車を待つよりも自分で病院に連れて行った方が早いなら、マニュアル車を運転できることに越したことはないと思って取得したのです。
教習所のおじさま方からは、私がエンストを繰り返すので「なんで無理してマニュアルにしたの?」と何度も言われましたが…笑
でも、田舎育ちのド根性で?無事、合格できました。
看護学生の時は何を目指していたか
看護の実習は、母性、小児、成人、精神、老年と、それぞれの領域を経験します。助産師とは、母性の実習で関わるタイミングはあります。しかし、看護学生のときは助産師になりたいとは思いませんでした。
というのも、母性の実習では出産に立ち会えて心が震えるほど感動し素敵!と思ったのですが、大学の母性の先生方は割烹着の似合う艶やかなTHE産婆!という感じで、自分のタイプとは全然違うと思ったのと、自分はどちらかというと外科や内科で闘病中の方をサポートする方が興味が高かったからです。
大学4年生の最後の実習では、自分が希望する領域を選べるのですが、私は老年を選び、摂食・嚥下に力を入れている愛知県の特別養護老人ホームへ実習に行きました。
食べることは、生きること。
長生きするためには、食べられる(自分で咀嚼して飲み込める)ということが重要と考えていたからです。
年齢とともに身体の機能が落ちたとき、摂食・嚥下の機能が落ちないように、どのように評価してアプローチしているのか学びたかったのです。
看護学生の頃は、助産とは全く違う分野に興味があったわけですが、食にとても興味があるという点では、昔からの興味は変わっていないということを、最近気づきました。
学生時代や看護師時代に、高齢者や疾患をきっかけに摂食・嚥下の機能が下がっていく過程を最初に学んだわけですが、
助産師になってからは、赤ちゃんが授乳や離乳食期を通して摂食・嚥下の機能が発達していく過程を学び、両方を知ることができた今、より摂食・嚥下に大変興味を持っています。
人間が産まれ発達していく過程と、老化して機能が下がっていく過程はとても似ていて、老いていく過程は、この世に生まれた時の本来の姿に戻っていくという感覚です。
大変だったが天職だと思った看護師勤務時代
大学卒業後は、看護師として都内の三次救急病院で勤務しました。
所属は内科外科混合病棟で、婦人科や膠原病科、化学療法科があり、女性が多く、かつターミナルケアなどを行うことが多かったです。
赤十字の災害救援支援にも興味があったので、いつでも出動できるようにトリアージや救急法の研修も受けてきました。
三次救急病院は、日々最新の情報をアップデートしなければならず、勉強する範囲も広く、また、変則三交代制という慣れるまでに身体的にもハードな環境。
正直、ついていくのに必死で、大変なことも多かったです。でも、とてもやりがいを感じていたし、こんなにも人のことを想い、考え、人様の人生に関われる仕事は他にはないと、こんな素晴らしい仕事をさせていただける自分は幸せだと感じていたの覚えています。
臨床3年目の頃、臨床をしながら、研究もできるようになりたい(自分が行うケアを後世に記録として残したり、専門的に突き詰めていきたい)と考えていた私は、時々母校の先生に会いにいき、自分の進路を相談していました。
当時、より知識を深めたいと思っていたのは教育領域です。
プリセプターや病棟の教育係などをさせていただく機会があり、もっと突き詰めたいと感じたのです。
でも、教育はどの分野でも共通することなので、自分の専門分野を決めてから教育を極めるのも遅くないと感じ、大学院に進学するのは臨床3年目の今ではないと思いました。
転機が訪れる
毎年春頃に、病棟の師長さんと近況や進路についての面談をする機会がありました。
そのときに「えびはらさん、行きたい科はある?」と聞かれました。
それまで他科への異動を考えていなかった私は「来年も変わらずこの病棟でお願いします」とお伝えしました。
でも、面談を終えたあと、ふと…「私はこの先、何を目指そう?」と考えたのです。
就職時は、摂食・嚥下に興味があり、第1希望に脳外科配属を希望していました。
でも脳外科は大人気で、私は第3希望の、婦人科や膠原病科、化学療法科のある女性の多い、外科と内科の混合病棟に配属されました。
配属科で、日々関わらせていただいたケアは、周手術期看護、がん看護、化学療法の管理、がん放射線療法の管理、脱毛やリンパ浮腫、嘔気、便秘、不眠を始めとするのがん治療の副作用のケア、ターミナルケア、エンゼルケア、膠原病の内服や点滴治療、壊死組織の管理、褥瘡管理、腰椎穿刺や胸腔穿刺の介助、人工呼吸器の管理(ごく稀)、がん疼痛管理、在宅への移行ケアなどです。
産科と婦人科が別のフロアで管理する病院だったので、産科での稽留流産や死産の方の入院もありました。
師長さんの面談を終えてからふと、自分はどういうことに興味があって、この先どういう道に行こうか?と考え始めた私。
例えば
・様々な科を経験するジェネラリストナース
スペシャリストを目指すなら臨床経験を生かして大学院へ進学して症例を積み重ねる専門や認定看護師
・がん看護専門看護師
・化学療法認定看護師
・がん放射線療法認定看護師
・がん治療の方のリンパ浮腫療法士
など
色々思い浮かぶ中で、がん治療に関連する進路がたくさん思い浮かびました。
でも、日々、大切に関わらせていただいた患者さんを看送らせていただく中で、思ったことがありました。
「医療者は、家族のように大切に患者さんに関わるけれど、家族のようには、悲嘆の過程はたどれない」ということ。
この感覚は、私独特の感情かもしれません。
医療者の中には、仕事は仕事と割り切っている方が多いのも事実、割り切らないとメンタルがもたないと思う場面も多いのです。
感じ方、考え方はそれぞれです。
ただ、私の場合、長い闘病や本人や家族の葛藤に寄り添ってきて、最期をお看取りし、出棺したとき
霊安室から地下駐車場にお送りし、車が見えなくなるまで頭を下げ続けながら、患者さんやご家族と過ごしてきた日々、残されたご家族に想いを馳せるのです。
私の心も、家族のように泣いています。
でも、次の瞬間には仕事が待っています。
病棟に上がるエレベーターの中で気持ちを整えて深呼吸する。病棟に戻ったら、また笑顔で患者さんに関わるのです。
白衣にはパワーがあるのか、白衣を着ていればシャキッと気丈でいられる自分も、仕事を終えて白衣を脱ぎ、一歩病院の外へ出ると、医療者ではなく一人の人間としての心に戻るのです。
何度泣いたことだろう。。。
病棟の仕事が辛いとか、先輩にきつく指導を受けたとかでは泣いたことはないです。(いや、裏で泣いたことはあるかも)
そういうので泣くとは違う泣くです。
こころから泣いているのです。
悲しいというか寂しいというか。
闘病生活で、私は力になれたのだろうか。
残されたご家族は大丈夫だろうか。
・・・今、元気にしているだろうか。
ご家族に手紙を送ったこともあります。
今思えば、私には大病院の看護ではなく、在宅看護が向いていたのかな。
初めて助産師になりたいと言ったときは、同期や上司にはとても驚かれました。
リールでお話しもしているのでご興味ある方はInstagramもどうぞ😊
次回は、大学院に進学する話を書きます。
最後までお読みくださりありがとうございました。
🌸助産院SAKURA SALON🌸
いつでも個別相談を承っていますので、日本在住、海外在住かかわらずお気軽にご相談ください。
看護師さん、助産師さん、看護学生、医療者の方もお話希望でしたらどなたでも🥰
世田谷区界隈にお住まいで、マイナートラブルや産後お疲れの方は施術をお申し込みください😊