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演奏におけるsubito p の威力 トランプ氏の演説を音楽的に分析

25年前の学生時、友人の試験のために伴奏した管楽曲を、再びコンクールで伴奏することになった。25年も経つと、流石に運指も全てやり直しで、テクニック的にメリットはほとんどないように思う。しかし、当時譜読みした記憶や、指摘されたことなどが、様々思い出されてきた。楽譜を読み直してみると、10代の頃は、作曲家が表現しようとすることなんて、ひとつも理解していなかったと思う。ただ楽譜を指示通り弾いていただけで、何が音楽を魅力的にするかなど、考えもしていなかった。

この楽曲の後半には、巧みにsubito p(スビトピアノ=音量を急に小さくすること。sub.pと表記されることも)が使われている。何度も転調しながらひとつのフレーズが発展していくのだが、その過程で、絶妙なタイミングで、subito pが登場する箇所がいくつかある。その使われ方が、これ以上ないくらい巧みなのである。本来なら、ffで盛り上げてもおかしくない箇所なのだ。そこをあえて、subito pで演奏させる。こういった指示は、他にも様々な楽譜で見かけるが、作曲家の技に脱帽である。

盛り上がると思って期待した箇所で、まるで肩透かしを食らったように、一瞬で静かになる。それまで大きな音に慣れていた耳が小さな音を捉えるには、神経を集中しなくてはならない。subito pと表示されるのは大抵、楽曲にとって大切な部分、美しく繊細な旋律だ。それを聴き漏らすまいと、聴衆も耳をそばだてる。そして奏者にとっても、ffでガンガン演奏するよりも、subito pはずっと表現が難しい。一瞬で音量を最小にするというのは、強弱表現の中でもかなり高等テクニックで、緊張感を持ってコントロールする必要がある。こうしてsubito pは、奏者、聴衆共に極度の集中力を要求し、その場の一体感を生み出す。大音量で主張するのとは全く異なった、深く印象に残るフレーズとなるのである。

このsubito pの威力に気づいたのは、随分前、印象に残る演奏を分析していたときだ。特に楽譜の指示のない部分で、効果的にsubito pを取り入れている演奏に、一種独特の魅力があると感じたからだ。フレーズを印象付けたいとき、音量で示すだけが賢いやり方とは言えないのだ。大切な部分こそ音量を落とし、相手の集中力を要求して、強烈な印象を与えることが可能なのだ。

個人的には、Subito pについてはこんな風に考えているのだが、これは演説などにも当てはまると思うのだ。私の趣味は、世界各国のニュースをライブ配信で聴くというもので、それを楽しむために、言語学習を欠かさないと言っても過言ではない。世界中のリーダーの、大小様々な演説をライブで聴けるのも楽しみのひとつなのだが、最近気づいたことがある。

トランプ氏の演説には、音楽で言うところのsubito pが、効果的に使われているときがある。戦略的にやっているのかどうかは分からないが、他のリーダーの演説に比べると、そこが際立つ。ビジネス出身であるし、この手法で交渉をしてきたのかもしれない。一般に、歴史に残る名演説などを聴いても、主張したい部分こそ大声ではっきりと、というものが多い。しかし、トランプ氏の場合、まるで内緒話をするように、トーンを落として印象付けるというやり方が現れる。このsubito pの威力により、聴衆は、神聖な静寂の中、何か特別なことを共有してくれたという、一種の恍惚感を得られるのではないか。トランプ氏は、聴衆を気持ち良い気分にする達人とも言えそうである。だからこそ、内容云々に関わらず、熱狂的な支持層を保てるのではないか。

演説と演奏は結構似ていると思うのである。どちらもクライマックスがあり、そこに至るには、いくつかの大事なポイントがあり、それらをどれだけ深く無意識に埋め込めるか、というのが全体の印象を左右する。いくら細部が整っていても、ただサラサラと流れていくようでは、損にも得にもならない。

上手い演説や演奏は、音量を巧みに操作している。そしてそれは、ただ音量を大きくすれば皆が耳を傾けるというものでもない。うるさいものは、わざわざ聞かなくなるものである。保育に関わる方も話していた。大騒ぎしている子ども達を静かにするのは、大声ではなく、小声で話すことだと。

人間の耳は、思いのほか、大音量にすぐ慣れてしまう。言葉であろうと、音楽であろうと、最初は感動したことでも、何も感じなくなってしまう。そこでsubito pの出番である。注意を引きたいとき、印象を残したいとき、大事な主張をしたいとき、敢えて音量を落としてみる。上手く使えば、その威力に驚くはずだ。




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