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【今日のnote】人生のストーリーの登場人物は、自分で決めればいい。


 どうも、狭井悠です。

 毎日更新のコラム、160日目。

(今日から、ですます調から、である調に変えてみようと思う)

 これから新宿に打ち合わせに出る前に、パタパタとタイピングをしている。昨日はいろんな気持ちがマーブル模様のようにぐるぐると回って、ちょっと船酔いのような夜だった。あまり眠らずに朝を迎えたので、逆に昼間にめちゃくちゃ眠くなってしまい、仕事をしては眠り、起きては仕事をしてといったサイクルを繰り返していたらあっという間にこんな時間。なんだか、最近は一日一日をけっこう取りこぼしているような気がする。まだリカバリが効くことはわかっているから問題はないのだけれど、都会の暮らしってこんな感じだったなあ、と改めて感じている。東京にいると、何もかもがあるけれど、何もかもがない。そんな風に思う時がある。

 不思議と、地元の事務所にいる時は、そんなふうには思わなかった。地元の実家の2階にある事務所は、ただ静かな風の音が聞こえ、時折走るクルマの音が聞こえ、日が差し込み、猫が日向ぼっこをしているだけの空間なのだけど、あそこは良い。こころが落ち着くし、ものすごく凛とした気持ちになる。けれど、なんというか「終の住処」という感じがしてしまうのだ。たぶん、僕はきっと、生家の、あの部屋で死ぬのだ。そういう、終焉の気持ちがどこかに湧いてきてしまうので、ずっといると息が詰まってくる。自分が34歳の働き盛りの男ではなく、終わりを迎えようとしている老人のような気分になってくる。そういう思いがあったから、僕は東京に家を借りた。

 東京には、少しずつ、居場所ができ始めてきた。代理店さんとも仲が良いし、今、一緒に動いているメンバーも最高だ。来月には、ジョーブログのジョーくんのインフルエンサー事務所である「オンザロード」のオフィスも使えるようになるみたい。立ち上げに参加しているのだ。いつの間にか、僕はまた、スタートアップの最先端みたいな場所に、ひょっこりと顔を出している。すごく不思議なことだ。昨年の自分に今の状況を聞かせたら、きっとびっくりするだろうな。そして、今こうして生きている僕も、これからどんなことが起こっていくのか、検討もつかない。

 しかし、そうした希望に満ちていく未来があるのに、なぜ、僕は誰かから、ある時、とつぜん必要とされなくなってしまうのだろう。そんなことを考えて、ふと立ち止まる。僕自身は、何も変わったつもりはない。昔から、ずっと同じようなことを考えながら生きている。けれど、外側から見える僕は、どうやらそうではないらしい。今の僕は、ものすごく血気盛んで、勝ち負けにこだわっているように見えるらしい。もちろん、Twitterのような場所でつぶやく言葉は、そういう内容が増えたかもしれない。noteでもそうだ。ストラテジーやロジックを、かなり論理的に語るようになり、文体も変わったかもしれない。だから、僕以外の人間が、僕をみた時に、まるで別人になってしまったと感じても、それは仕方がないことだろう。

 けれど、僕は僕だ。僕はずっと今も昔も、ここにいる。

 誰かが離れていってしまったときに、いつも思い出すのは、母親のことだ。父親と離婚して、家を出ていったとき、母親は「あなたは大丈夫だから」といって、玄関を後にした。僕は、大事な友達や、自分が好きな人がどこかにいってしまうときに、いつも、このときのことを思い出してしまう。また、頑張らなきゃいけないのか、と思う。僕はいつだって、安心して一緒に過ごせる友達や、家族や、パートナーが欲しくて、ここまで頑張ってきた。確かに、そういうメンバーは増えてきた。けれど、離れていってしまう人もいるんだ。だから、どれだけ頑張っても、みんなをつなぎとめることは、きっとできないんだと思う。考えてみれば当たり前のことだ。

 それぞれの人生を生きるしかない。

 もらった言葉を反芻している。確かにその通りだと思った。だから、人生のストーリーの登場人物は、自分で決めればいい。僕にはもうこれ以上会わなくていい、と決めた人たちは、僕という存在は、自分の人生のストーリーには必要のない人間だと決めたということだ。僕はそれを受け入れなければならないし、人の心模様をコントロールすることなんてできないのだから、「左様なら(さようなら、それならば、仕方がないね)」と言うしかない。

 僕が、人生の中で離れていってしまう人が現れる時に必ず体験することを、以下に少し、まとめておきたいと思う。

・いずれか、あるいはお互いの環境に大きな変化が生まれる

 最初に出会った頃と比べて、二人の間のいずれか、あるいはお互いの環境に大きな変化が生まれた場合、その人との縁が揺らぐ可能性がある。人間は環境によって左右されるものだから。

・共通言語がだんだんと見えなくなってくる

 環境が変わってしまうと、お互いに使う言語も変わってくる。そうなると、出会った頃に持っていたはずの共通言語が、だんだんと見えなくなってきてしまう。

・なんらかの衝突が起こる

 僕が今回、体験したのは、とある議論での諍いだった。お互いに主張していることがあるのだけど、環境が変わり、共通言語が変わってしまったから、主張している内容が噛み合わなくなる。結果、衝突が起こる。まあ、喧嘩みたいなものだ。ここまできてしまうと、「ああ、なんだかだめだな」とお互いに感じることになる。

 こんな感じだろうか。多くの人がきっと体験していることだと思うので、こうした傾向のある人が近くにいるときは、ある種の別れが近いかもしれない。だから、もしも関係性をちゃんと維持したいならば、なんらかの衝突が起こる前に、きちんとお互いの考えをすり合わせた方がいい。そういうすり合わせの気持ちがなくなって、衝突に持ち込んでしまうときがきた時に、ひとつのストーリーの幕切れは待っている。

 人生の登場人物のストーリーは、自分で決めればいい。

 そう、好きに決めたらいいんだよ。

 星の巡りが変わったんだ、それは、誰のせいでもない。


 正直言って、今の僕の歩幅はかなり広い。だから、本来であれば足並みを揃えなくても問題なく関係性が維持できるはずの、たまに会う大切な友達とも諍いが起こってしまうくらい、何か人生に大きな変化が起こっているみたいだ。自分では、当事者だから、まだその規模感がわからないのだけど、たぶん、来年くらいから、それが顕在化し始めると思う。

 そして、この文章をきっと、その頃にまた、読み返す時がくるという予感もする。おい、狭井悠、お前の当時の現在地はここだよ。ずっと、頑張り続けて、また失って、また頑張り続けて、今の君には、いったいどんな景色が見えている? 僕は君に期待しているし、不安もたくさんある。けれど、間違った世界にいないという確信だけはあるんだ。今よりも、もっと良い世界が実現できているという、根拠のない自信だけはあるんだ。だから、頼む。たとえ、詠み人知らずになれども。どこまでもまっすぐに、生きていてくれよ。悲しい出来事があったとしても、今の僕は、それを乗り越えて、ちゃんと、健気に、必要なものごとを積み重ねていくから。よろしくな。


 今日もこうして、無事に文章に文章を書くことができて良かったです。

 明日もまた、この場所でお会いしましょう。

 それでは。ぽんぽんぽん。

サポートいただけたら、小躍りして喜びます。元気に頑張って書いていきますので、今後ともよろしくお願いいたします。いつでも待っています。