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【連載詩集】No.11 平成最後の七夕はひどい雨だった。

「平成最後の七夕はひどい雨だった。」

 今日という一日は、何気なく過ぎていく。

 しかし、あとあと思い返してみれば、

 僕たちは、忘れられない時間を、

 過ごしているのかもしれない。


 今、観測史上でも類を見ない大雨が日本を襲っている。

 織姫と彦星は、どうやら、逢えそうにない。

 先日、90年代の日本を震撼させた、

 新興宗教の教祖が死刑となった。

 少し前には、大阪で大きな地震があった。

 先ほど、千葉でも大きな地震があったらしい。

 来年の今頃には、「平成」ではない、別の元号になる。


 現代に生きる僕たちは、

 ひとつひとつの事象にたいして、

 いちいち因果関係を求めない。


 それは、あらゆる事象が、

 科学によって説明することができると、

 信じているからである。


 すべての出来事は、

 何もかも無関係で、

 偶然起こっている。

 そう思っている。


 しかし、

 古来の日本人であれば、

 どう考えただろう。


 たとえば、1300年前、

 平安時代であれば、

 これらの天変地異と、

 時代の変容を結びつけて、

 何かご祈祷が始まっても、

 おかしくないような、

 そんな様相を呈しているようにも思う。


 自然への畏怖。

 目に見えない何かへの不安。

 そうしたものが、

 いつの時代も、

 人間の心を、

 ぎゅっと掴み、

 それが、

 ときに誤った扇動に人々を駆り立て、

 争いが起こり、

 わけのわからないものを盲信したり、

 他人に運命を預けてしまったりする。


 先日、

 少年時代に夢中で観た映画、

「孔雀王」をふたたび観る機会があった。


 劇中に、

「末法の世」という言葉が出てくる。

 調べてみると、こんな意味だった。

釈迦が説いた正しい教えが世で行われ、修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても、外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり、正法がまったく行われない時代(末法)が来る、とする歴史観のこと


「外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)」

 新興宗教の教祖が一時代を築いた世。

 まさに、90年代の日本を思わせる言葉だ。


 僕たちが生きる2000年代。

 悟る人がいない時代は、

 きっと今も、

 続いているのだろう。


 そして、像法の時代は過ぎた。


 平成が終わり、新しい元号を迎える時代。

 仏教の文脈に則って表現すれば、

 日本はまさに、「末法の世」に、

 突入するのかもしれない。


 だからこそ、僕たちは、

 自らの生き方を、

 自らの意志で、

 選ぶ必要があるし、

 たとえ世が乱れたとしても、

 自分のこころだけは、

 自由に持っていなければならない。


 先ほど、

 友人から、

 連絡があった。


「今年の七夕は、どんな願い事をする?」

 という一言。


 末法の世について、

 詩を書きながら、

 考えていた僕は、

 なんだか拍子抜けするとともに、

 すごく嬉しい、

 温かい気持ちになった。


 少し考えて、

「今の信念を忘れずに持ち続け、

 生き延びることができますように」

 とした。


 友人は、この五年ほど、

「笑って過ごせますように」

 と願っていたらしいのだけど、

 今年は、

「選択と集中」

 にすると言った。


 選択と集中、

 良い言葉だ。


 

 ——平成最後の七夕はひどい雨だった。


 しかし我々は、

 変わらず願いを持って、

 次の元号に向かう自分たちの前途を信じ、

 明日に向かうのだった。


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