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【15日目】大いなる矛盾と「両手じゃんけん」のセカイ(セカイのトリセツ)

◆命の目的と【大いなる矛盾】

 命というものがなぜ「ある」のか? という話の続きです。

 宇宙の目標である「最終的に【有】のモトでいっぱいになる」ということと、僕たちのココロが求める「幸せ」=「【有】のモトがいっぱいある状態」が同じなのはなぜか? という話を前回しました。その理由は

「宇宙が命(コロロを持つ存在)というものをそういうふうに設計したから」

でしたね。宇宙の目的を果たすために、命というものは宇宙に都合よく「設計されている」という驚きの結論が出ました。

 問題は、この場所が【地獄】であることです。地獄が地獄たるゆえんは

【大いなる矛盾】

上級編【4日目】『大いなる矛盾』の世界とその名前

の存在でしたよね。僕たちはこのルールに則って、日々殺し合いをしないと生きられないのでした。まさにリアルなデスゲームです。

 では、命と宇宙の目的が同じなのに、宇宙(=地獄)にこんなやっかいで悲しく、苦しみに満ちた恐ろしいルールが設定されているのは一体なぜなのでしょうか? それを突き詰めていきましょう。


◆イオンモールに行くのは「なぜ」か?

 ここで上級編の【8日目】に引き続き、またイオンモールの例えを出したいと思います。イオンモール、行ったことありますか? まあ別にイオンモールでなくてもいいのですが……。
 さて、イオンモールに行くのはなぜかというと「『用』があるから」でしたよね。たとえば

  • 買い物がしたい

  • メダルゲームがしたい

  • トイレを借りたい

  • イートインスペースでコーヒーが飲みたい

  • 屋内ウォーキングがしたい
    (実際に「イオンモールウォーキング」というイベントが公式にあったりします)

などなど、人それぞれの『用』です。こういった、それぞれの『用』があるから行って、そして『用』をすませて帰ってくるんです。帰る場所はもちろん「家」ですよね。
 上級編ではこの「僕たちがイオンモールと家を往復する理由」という『必然性』を使って、僕たちが地獄と天国を行ったり来たりしているのはなぜか? という話をしました。覚えていますか?
 僕たちが地獄に生まれてくるのはなぜか? というと『用』があるからで、『用』をすませるためにこの【地獄】に生まれてきて、『用』をするために生きて、そして『用』がすべて終わったタイミングで帰るんです。そのとき帰る場所が、死後のセカイである【天国】だ、という話でした。

 この『用』とは何だったか? というと……あの時書いたのは

【個別のドラマ】

だよ、という話でした。僕たちはそれぞれの「予定された【個別のドラマ】を地獄でやる」という『用』があるから生まれてくるのだ、ということでしたよね。
(個別のドラマについては上級編【2日目】参照)

 なぜ地獄でその『用』をやるかというと……天国ではこの【個別のドラマ】が絶対に体験できないから、でした。なぜなら

「天国で起こることはすべて【両手じゃんけん】だから」

でしたよね。自分の両手でじゃんけんするときのように、登場する者すべての動機や理由、そしてその結末まで全部「知っている」状態で起こるのが天国での【個別のドラマ】なんです。それでは「一度見た映画をもう一度見ている」ような体験しかできないから、僕たちは全員わざわざ地獄まで来ているんです、という話をしました。

 実は、この【個別のドラマ】をちゃんと「ドラマ」にするために必要なものが

【大いなる矛盾】

なんです。


◆天国では「モトが増やせない」

 天国の世界で起こる【個別のドラマ】は、自分が考えたとおりのことが、自分の思い通りに、自分が思いついた瞬間に起こります。もし僕が今すぐひょんなことから豪邸で美人姉妹とイチャイチャしながら暮らしたい!と思ったら、天国ならその瞬間にそのとおりになるんです。
(なんてうらやましい……)

 ですが、それ以外のことは「起こらない」んです。美人姉妹が自分を取り合って喧嘩し始めることも、その後仲直りして自分を仲良く支えてくれることも、みんな自分の思い通りになってしまうんです。

 ドラマって、これではつまらないんですよ。

 たとえば、そんな生活の途中で、もうひとり自分よりイケメンの男が一緒に暮らし始めて、美人姉妹がソイツに夢中になって自分は嫉妬する、とか、イケメンと殴り合いの喧嘩をしたあと、友情が芽生えて親友になる、とか……そういう

「自分の意志と関係ない事件」が『全く起こらない』

んです。
 これではドラマとしては「つまらない」ですよね。つまらない、ということはどういうことかというと……なんと

それ以上モトが増えない

んです!!!
 どうしてか? ほら、ココロは「モトのジェネレーター」だったですよね。そしてココロがモトを生み出すのは「ココロがモトでいっぱいになっている=喜びや感動に満ちている」とき、だったですよね。
 この条件のもと、【両手じゃんけん】の状態でいくら【個別のドラマ】をやったとしても、ドラマの結末も途中のプロセスもみんな「知っている」ので、アタマは「どうせそうなるよね」という当たり前の感覚しか持つことができません。そうなると

【好き嫌いゲージ】が動かなくなってしまう

んです。だって、結末もプロセスもわかっている「一度見た映画」を何度見ても、その映画を初めて見たときの「驚き」「感動」と同じものを味わえるはずないじゃないですか。それはつまり【好き嫌いゲージ】の動きが鈍る、ということを表しています。好きでも嫌いでもなくなるということです。当たり前のことが当たり前に起こっているにすぎないのですから。

 この【好き嫌いゲージ】が動かない、というのは「ココロが空間にモトを生み出していない」ことを意味しています。なぜなら、ココロがゲージを上げて「好き」側いっぱいになっているときにしか、ココロはモトを【有】の状態にできないからです。
 これでは、宇宙は困ってしまうんです……僕たちのココロは「宇宙空間に【有】のモトを増やす」という目的で設計されているのですから。

 ですから、地獄で「自分の意志とは関係ないできごと」が起こってくれないと、僕たちの命というものは「本来の機能」=地獄の空間にできるだけたくさんの【有】のモトを出現させる、という機能を発揮できなくなる、ということになります。
 こういうロジックで、地獄の世界には「そのために必要な仕組み」があるはず、ということになります。


◆他者の「都合」を創る【大いなる矛盾】

 結局、イオンモールと家を往復するように僕たちが何度も死後の世界、すなわち【天国】から今いる【地獄】にやってくるのは、地獄の世界で起こる【個別のドラマ】というものが

自分の思い通りにならないから

なんです。もう少し簡単に書くと、思い通りにならない出来事がたくさんあるからこそ、思い通りになったときの「喜び」が味わえる、ということです。そのときに初めて『空間のモトが増える』のです。

 そしてこれは上級編で出てきた【関わりの網目】の話でもあります。そこには他人・他者の

「都合」

がかならず関わってくるんです。そしてもちろん、他者の都合というのは『地獄のルール』によって「自分には知覚できない」んでした(上級編【7日目】参照)。
 このときに「他者には他者の都合がある」という状態でないと、僕たちに【個別のドラマ】は起こりません。他者に都合があるから、自分の都合とぶつかるわけですからね。
 この「他者の都合」の一番根本にあるのが、冒頭の

【大いなる矛盾】

なんです。次回もう少し詳しく掘り下げますけど、この【大いなる矛盾】がないと、僕たちは【個別のドラマ】で『他者との関わり』を経験できなくなってしまうんです。


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)