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【16日目】なぜ「ジンセイはツラい」のか(セカイのトリセツ)

◆一切皆苦の【大いなる矛盾】がある『地獄』

 話がややこしくなってきたので、ちょっと箇条書きで振り返ります。

  • 宇宙空間には『モトの集合体』という構造がある

  • 時間には「終わり」に向かう『シナリオ』がある

  • この『シナリオ』に「生命誕生」が書いてある

  • つまり生命誕生はもともと「予定されていた」ことになる

  • 予定されていた以上、生命誕生には「目的」がある

  • 生命体のココロには「【有】のモトを増やす機能」がある

  • 生命が誕生した目的は宇宙を【有】のモトで満たすこと

  • だのに宇宙には地獄の掟【大いなる矛盾】がある

  • 【大いなる矛盾】があるのは『他者の都合』を生むためである

 このように理論的に「こうだから、こう」を積み重ねていくと、宇宙や僕たちの命というものには、こういうふうに『存在する必然性』があることが分かります。この根本に『モト』でできている地獄世界(宇宙全体)の構造がある、ということです。

 では【大いなる矛盾】についての続きです。このやっかいな『仕組み』があるからこそ、このセカイは『地獄』だし、そして僕たちのジンセイが「ツラい」のは『当たり前』なのだ(仏教でいう一切皆苦)、という話を上級編で何度も書きましたね。ではなぜこんなムゴいシステムが存在するのでしょうか?
 実はこの恐ろしい「地獄の掟(おきて)」……他者を殺して食べないと自分が死ぬ、という『仕組み』は、上級編の【11日目】で書いたとおり

強制的に他者と関わらなければならない

という状態を引き起こします。
 もしこの掟がなかったら、僕たちは生まれた場所に引きこもって、単体の生物としてなんとなく存在して、そしてそのまま死んでいけば『地獄』での生活を全うできるはずです。ですが、そうはなっていません。僕たちはやっぱり何か食べないと死んでしまいます。ですから「生きたい」と願っている他の生物を殺して食べるという、とても『自分勝手な行動』を取らないといけなくなるわけです。
 ここでお互いの

『都合』がぶつかる

ということがすでに起こっているのです。


◆『都合』のぶつかり合いと【個別のドラマ】

 前回、【関わりの網目】で生き物同士でお互いの『都合』がぶつかるのはこの【大いなる矛盾】があるから、と書きました。僕たちは自分が生きるために必ずこの【大いなる矛盾】にそって、他の生き物と「いちばん嫌なかたちで」関わらないといけないのです。食欲に任せて肉を食らうライオンと、食われたくないインパラとの「お互いの都合」がぶつかる構造になっている、ということです。
(もちろん「食欲に任せて草を食らうインパラと、食われたくない草の「都合」もぶつかっています)

 ひるがえって、人間の社会はどうかというと。

 これもやっぱり、お互いの『都合』が【関わりの網目】でぶつかる構造になっていますよね。上級編【19日目】でご紹介したことですが、僕たちの社会もまた「他者との競争」をベースに作られています……オカネや資源分配しかり、レンアイしかりです(中級編参照)。
 もっと言うと、日常のほんの小さなこと……たとえば「部屋を片付けてほしい」という親の『都合』と「遊ぶのに夢中」という子供の『都合』がぶつかって「親に叱られる」という【関わりの網目】がやってくる、なんて【個別のドラマ】もしょっちゅう起こっています。
 こういったささいなすれ違いにも、その根本には先ほどの【大いなる矛盾】が関わっています。たしかにこういう小さな日常は「食う食われる」という大げさな関係ではないですが、地獄の掟【大いなる矛盾】があるから、こういう【個別のドラマ】も起こるんです。

 どうしてそう言えるのかというと……地獄には次のルールがある、という話を上級編でしました。それは

①自分以外の個体が考えていること・感じていることを知覚できない
②「今」という時間の先を知覚できない

【7日目】「誰も知らない世界」とじゃんけん(ジンセイのトリセツ)

こうでしたね。どうしてこんなルールがあるのか? その答えは

【大いなる矛盾】というシステムを実現するため

なんです!


◆【大いなる矛盾】がないと「じゃんけん」ができない

 この【大いなる矛盾】というシステムは、必然的に「戦う」ことを要求してきます。戦って、そして相手を打ち負かさないと生きることができない、というとても残酷なシステムなんです。理科で習う「食物連鎖」というものは、この「戦い」によって上下が決まります。だけど、最底辺の生物も「うまく戦えば(逃げのびる、数を増やす、など)生き残れる」システムにもなっています。よくできてますよね。

 先ほどの「地獄のルール」について上級編で書いた時、一緒に

『じゃんけん』

の話もしましたよね。僕たちは『じゃんけん』が「できる」から、わざわざ地獄に堕ちてくるのだと。
 先ほどの二つのルールがないとこの『じゃんけん』が「できない」んだ、とあの時書きました。そして「天国ではすべてが両手でするじゃんけんになってしまう」とも(【両手じゃんけんの状態】)。
 これは今話題にしている【大いなる矛盾】が「存在できる」状態、というのと共通しています。言いかえれば、先ほどの

「地獄のルール」がないと【大いなる矛盾】が存在できない

んです。なぜなら「他者の都合」を先に知覚できてしまったら、そして未来が「見えて」しまったら、誰も誰かを『捕食できない』からです。だって、基本的に誰も殺されたくないですし、襲う側も殺した相手の苦しみや痛み・恐怖感が「直接伝わってくる」なら、捕食するのをかなりためらうはずだからです。
 上級編では「僕たちは地獄でじゃんけんをするために生まれてくる」と柔らかく書いたのですが、その根本にはこの「殺し合い」という血生臭いシステムがある、ということなんです……。やっぱりこの世を『地獄』と名付けて正解だったと改めて思います。

 そしてもちろん……日常の小さなすれ違いも、この『地獄のルール』がないと起こりえません。片付けない子供、イライラする親、それらお互いの都合が「ぶつからなく」なってしまうんです。どちらももうすぐ何が起こるか分かってしまって、かつ相手の気持も「直接感じられて」しまったら、子供は叱られるようなことを一つもしないし、親も叱って行動を促す必要がなくなってしまいます。

 というわけでこのように【大いなる矛盾】という「自分勝手な都合」が『存在できる』から、僕たちには地獄でしかできない【個別のドラマ】を体験する機会が与えられる、という仕組みがあるのです。
 だから地獄にはこの【大いなる矛盾】という、ときに厄介なルールが定めてあるし、それゆえに僕たちはわざわざ天国の世界から、この恐ろしい地獄に「ジンセイのツラさ」を体験しにやってくるんです。

 それも「家からイオンモールに出かけるような気分で」です……。


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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)