見出し画像

読み終えた本~「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜紗さん著~

この本との出会い

ふらっと立ち寄った本屋で出会った本。
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』。
著者は伊藤亜紗さんです。

視覚に頼り過ぎている

人間が視覚からの情報に頼り過ぎていることを教えてくれました。

私たちは日々、五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)からたくさんの情報を得て生きている。
なかでも視覚は特権的な地位を占め、人間が外界から得る情報の8割〜9割は視覚に由来すると言われている。
では、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、そして世界の捉え方はどうなるのか。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜沙さん著より引用

『百聞は一見に如かず』に如かず

視覚からの情報は、『百聞は一見に如かず』の言葉のように、多大な情報をわたしたちに与えてくれます。
一方で情報過多になり、脳が処理しきれずに、見たふり、スルーをしている状況なんだろうな。

漢字を調べても、見る、視る、観る、視る、看るetc.いろいろありますね。
それぞれに意味が違うし、”みる”の度合いも違う気がします。

漠然と見るのと、情報を得ようと注視して視ることは同じではないことだってことなんでしょう。

見えることで見えなくなるものがあるのは、普段の生活、経験からも感じることがあります。
こうして投稿を書いていても、画面以外にも見えているものがあります。
それは見えているけど、見てはいない。
むしろ気が散るじゃまな状況かもしれませんし、見えたことでそちらに気が行ってしまい、視覚に翻弄される状況にもなりかねません。

↑わたしはよくその状況に陥っています。

見るとは何なのか

見ることってなんなのかを問い直す機会となりました。
著者の伊藤さんが視覚障害という特性を持った方たちにと接し、聞いたことや会話から得たことを通じ、見えない人がどのように世界を見ているのかを、伊藤さんの言葉でわかりやすく説明してくれています。

目で見るだけが見るではない

『目で見ることだけが「見る」ではない』ってことだと思います。
もちろん目でも見ることは出来るんだけど、触ること、嗅ぐこと、聞くことでも見るってことなんです。

この本を読んで、足の裏に集中して歩いてみたら、歩道の凸凹を足の裏に感じ、普段歩いている道なのに違う場所のように感じられました。
わたしはメガネを着けなければ世界がボヤケてしまうけど、いわゆる晴眼者と呼ばれるわけですのですが、足に集中した時は、目で見える世界はスルーしてしまっている感じでした。

晴眼者は目で見えている世界を頭の中に描いているけど、視覚障がい者は、もっと大きな世界を見ているそうです。
晴眼者が見えていることで、見えなくなっている典型的な話なのかなと感じました。

見えることで固定観念にとらわれやすいのかもしれない

晴眼者は、見えることによって、固定観念が出来てしまっているのかもしれないと感じる部分が多くある。
なんとなく感じるところであるけど、見えている立体のものを平面に置き換えてしまっているのかもしれない。
例えば遠くを見ても、平面的な絵と同じように、2次元に置き換えて考えているんじゃないかと思っています。

筆者は太陽の塔を例に挙げていますが、金色の高いところにある顔のほかに、お腹?の部分に顔があることは写真で見たことがありましたが、背面にも顔があり、内部にも顔があって、合計4つの顔を持つことを知りました。
驚き!

晴眼者の多くは、平面的で象徴的な2つの顔しか知らないわけですが、太陽の塔を立体物として捉えれば、4つの顔が等価であるととらえられるそうです。

足し算か、引き算か

メモ

そもそも、見えない人は容易にメモを取ることができません。
そのため必然的に多くのことを記憶しなければならない。 部屋の中のすべての物の配置はもちろんのこと、駅までの道に何があるか、職場のテーブルのレイアウトなど、あらゆることを記憶しなければならない。 待ち合わせの場所や時間なら点字や音声録音やキーボードの入力でメモを取ることもできますが、空間の情報そのものはメモすることができない。 見える人が目で見て済ませていることの多くを、見えない人は記憶で補っている。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜沙さん著より引用

晴眼者はメモが取れるけど、見てわかるものをメモに撮ろうとはしないけど、見えるものの背景にある話などを聞いたとき、それをメモします。

晴眼者は空間を目で見て、理解したつもりになっているが、見えない人は、音や匂いなど様々なもので空間を見て、記憶をすることで補っています。
メモが出来ない分、視覚で使う脳の領域が不要な分は、その領域を使って補う使い方をしているという話にも納得するところです。

目に見えることによる弊害

晴眼者は昨今、スマホや屋外広告など、視覚に訴える広告に晒されます。
とにかく沢山の広告が流れています。

もしかするとそれが要因で無駄なものを買ってしまうことになるかもしれません。
社会の流れで、視覚に訴える広告がたくさん出てきます。
晴眼者はそれらに縛られていると言えるかもしれません。

遮断することは容易ではないとは思うけれど、知らばれない生き方が出来るといいなと思います。

利便性を求める中で、引き算が有利となることがありそうです。

すぐスマホを向けて撮ってしまうわたしも、SNSの先にいるひとを意識しているんだろうな。
視覚に訴えかけながら。

排除された歴史

現代まで通じる大量生産、大量消費の時代が始まる時期、均一な製品をいかに早くいかに大量に製造できるかが求められるようになった。 その結果、労働の内容も画一化されていく。車を作るのに、Aさんが作ったのと、Bさんが作ったのでは出来上がりが違うのは困る。
「誰が作っても同じ」であることが必要であり、それは「交換可能な労働力」を意味する。 こうして労働が画一化したことで、障害者は「それができない人」ということになってしまった。 それ以前の社会では、障害者には障害者にできる仕事が割り当てられていた。 ところが「見えないからできること」ではなく「見えないからできないこと」に注目が集まるようになってしまった。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜沙さん著より引用

そうなのか!と腑に落ちた。
均質性が求められる中で、障がい者は排除されてしまったのですね。

『出来ないひと』
とても嫌な響きです。
ひとは社会のパーツになってしまったんですね。
簡単に世の中から排除される社会です。
排除されてしまったら戻るのは難しいでしょう。

個性が主役、尊重される社会に

ひとが主役になり、個性に合わせた働き方が出来たらいいのに。

この本は視覚に焦点を当てて、わかりやすく違いを見えるようにしてくれました。
社会は大きく変化していて、お互いの個性や身体の特性を知ることも重要になると思います。
これからは、相手がどのようなひとなのかについても、もっと想像してみようと思います。
その違いも楽しみながら。

いい機会を与えてくれた本に出会えました。
この出会いにはホント感謝です。

では。


関心を持ってくれてありがとうございます。 いただいたサポートは、取材のために使わせていただきます。 わたしも普段からあちらこちらにサポートさせてもらっています。 サポートはしてもしてもらっても気持ちが嬉しいですよね。 よろしくお願いしますね。