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日本の人事制度の歴史を振り返る~第 3 回: 低成長期~バブル期

今回は、オイルショック後の低成長期からバブル期までの人事制度 について、ご紹介します。このあたりから、筆者の会社員時代とダブル部分が多くなりま すので、自身の経験も含めて、ご紹介したいと思います。

第1回:人事制度とは何か~日本の人事制度の源流(戦前の人事制度)
第2回: 戦後の混乱期~高度成長期
第3回: 低成長~バブル
第4回: バブル崩壊~成果主義~ポスト成果主義
第5回: 変遷をたどって見えるもの~これからあるべき人事制度は


1.職能給の本格化

戦後の混乱期を乗り切り、力強い経済成長を遂げてきた日本経済に転機が訪れました。 昭和46年のニクソンショックと、その後の為替の変動相場制への移行(実質的な円の切 り上げ)、そして、昭和48年と昭和54年の2度のオイルショックです。日本経済はそれ までの右肩上がりの高度経済成長時代から、低成長時代へと移行していきました。 また、出生率の低下と教育水準の向上により、将来の高齢化・高勤続化・高学歴化を危 惧する声が起こってきました。

その結果

① 企業の中では、これまで、拡大を続けた組織数やポスト数が頭打ちとなり、主に大企 業でポスト不足が深刻になってきました。
② 一方で、高齢化社会の到来に対する危機意識から、年功賃金体系の修正が痛切に叫ば れるようになってきました。

この2つの課題を矛盾なく満たす制度として職能資格制度(職能給)が注目を浴びるよ うになりました。即ち、 『これからは、能力主義の時代です。年功ではなく能力で格付けます。能力で格付けま すから、ポストがなくても、然るべき能力を具備していれば、上位等級に格付けることが 可能です』という理屈です。

ポストと処遇の分離、役職にはつかないけれど等級が上がれば賃金は上がるということ でのモラール管理手段として注目されたのです。

このように、職能資格制度は当初はどちらかというと、日本社会における人事・労務面 の行き詰まりをカバーする制度として着目されましたが、その後、本来的な機能、すなわ ち従業員の教育・能力開発を促進する制度として注目されるようになりました。

単なるポスト不足対策、昇進圧力対策という消極的活用だけでなく、従業員の能力伸長、 活性化といった積極的活用のために採用されるようになったのです。そして、このことが、 2/8 その後の日本企業の強さの源泉につながっていったのです。

職能資格制度の導入は、昭和50年代に入って本格化しました。東急、キヤノン、三井 物産、ダイエー、やがてサントリー、キリンビールと、業種を問わず広がっていきました。

1977年時点で職能資格制度の導入企業は主要企業の5割を超え、また、1980年 代に入ると7割を超えるまでになりました。

日経連を中心に、「職能資格制度(職能給)は年功制の弊害を払拭できていない」という 批判をたびたび受けることになりますが、それでも、人事制度の基本原理としての位置づ けは変わりませんでした。

2.職能等級制度構築の手順

職能資格制度は、職能、すなわち職務遂行能力のレベルで社員を格付ける制度ですが、『日 本版職種別・熟練度等級制度』と呼ぶ人もいます。この場合、職種とは、あくまでインタ ーナル(企業内)での定義づけであり、欧州のようなエクスターナル(企業横断)なもの ではありません。

ここで、職能資格制度の構築ステップについて簡単に触れておきたいと思います。

① 職種の分類 ~職種とは、「求められる知識・技術の系列の違い」、と定義づけできます。たとえば、 営業職、研究職などです。必要に応じて、たとえば営業職の中をもうすこし細分化す る場合もあります。

② 課業の洗い出し ~具体的にどのようなことを行っているのか、それが課業です。たとえば、経理伝票 の作成、顧客訪問などです。職種別に全ての課業を書き出します。

③ 課業を熟練度毎に分類 ~熟練度、すなわち難易の程度によって課業を分類していきます。たとえば、顧客訪 問は熟練度Ⅰ、企画書作成は熟練度Ⅱなどです。

④ 必要技術スキルの洗い出し ~課業を遂行する上で必要となる知識、技能、スキルを洗い出します。たとえば、社 会保険労務士の資格、簿記 2 級相当の知識などです。

⑤ 職能要件書作成 ~熟練度毎に、課業と必要技術・スキルを職能要件書としてまとめます。熟練度=職 能等級となります。

⑥ 昇格・降格基準の作成 ~具体的に昇格や降格の基準を作成します。たとえば、職能要件書の内容を人事考課 に落とし込み、人事考課で考課ランク○以上であればチャレンジ資格を有する、チャ 3/8 レンジ資格を有したものを対象にHAを実施して、パー以上であれば最後に役員面談 を行って決定する、などの手順です。
実務的にいくつかのプロセスを踏むことが一般 的ですが、根本的な考え方は、一段上の職能等級に定められた能力要件を具備したか (入学方式)
または、現在の職能等級に定められた能力要件を完全にクリアーしたか
(卒業方式)の2種類があります。

3.職能資格制度、職能給のメリット・デメリット

職能資格制度のメリットおよびデメリットは以下の通り整理することができます。

職能資格制度および職能給のメリットとデメリット

🔶メリット
本人の属性にかかわらず、努力すれば報われる OJTやOFF-JTとリンクさせることで、人材育成が図られる 若年層に賃金に対する期待と展望を持たせることができる 能力と賃金が連動する。

🔶デメリット
結果的に年功化する可能性がある 降格をさせにくい 能力を発揮したかを測定できない 能力を発揮したかではなく、能力があるかなので結果と連動しない

デメリットの内、「結果的に年功化する可能性がある」は、早くから指摘されていた点で すが、その後、多くの日本企業がこのデメリットに陥ってしまうことになります。

4.人事考課制度

等級制度と報酬制度は、職能資格制度を柱に構築されていきましたが、人事考課制度に ついては、分布制限つきの評定尺度法が継続されました。

一方で、育成視点や評価の納得度の向上の観点から、絶対評価が徐々に拡大していきました。

処遇面では、考課の一段階の違いによる賃金差、賞与差が拡大していきました。因みに、 筆者が新入社員のころは、考課の一段階の違いによる賃金差が、500円~2000円程 度しかなく、「多大なエネルギーをかけて人事考課を行う割には、月額で残業手当1時間分 の差もつかないのか」と、思ったことを記憶しています。

戦後、労働組合は、ホワイトカラーとブルーカラーの身分差をなくす、という観点から、 近代的な人事考課の導入に肯定的な立場をとりましたが、徐々に否定的な考えに傾いてい きました。理由は、経営側がすべて握っていて不透明である、というものでした。それで も、同盟系の組合は比較的柔軟に対処しましたが、総評系の組合は、年功賃金を志向した ため、抵抗感を強く持っていました。

5.ジャパン・アズ・ナンバー1

『ジャパン・アズ・ナンバー1』は、1980年に、アメリカのハーバード大のエズラ・ F・ヴォーゲル教授により書かれた本で、70万部を超えるベストセラーとなりました。戦 後の日本経済の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営を高く評価した本です。

この本の発行後、アメリカの企業が日本の雇用形態や賃金の仕組みを勉強するために、 盛んに来日するようになりました。戦後の混乱期、先生と仰いだアメリカが、今度は生徒 として教えを請うようになったのです。

この本が、日本企業に自信を与えたのは言うまでもなく、自分たちがこれまでとってき たシステムに、改めて信頼感をもつこととなりました。職能資格制度を柱とする日本的な 人事システムについても然りです。人事制度の骨格として実績面(日本経済の成功)から も裏付けられる形になったのです。

昭和60年代に入ると、日本企業の海外進出が活発化しましたが、この日本的なシステ ムは、必ずしも海外では100%受けいれられた訳ではありませんでした。日本的システ ムの修正を余儀なくされる出来事が多く起こりました。昭和62年の住友商事の差別的人事が米国の従業員から訴えられ和解した事件が有名です。

6.新しい発想・新しい試み

以上のように、低成長時代に入っても、職能資格制度を柱とする人事システムの骨格は 大きくは変わりませんでした。むしろ強化されたといっていいでしょう。しかし、一方で 様々な新しい制度上の試みが行われました。

制度関連では、代表例として以下があげられます

• 複線型人事制度、専門職制度の導入
• 管理職の年俸制導入
• 生活関連諸手当の廃止・統合

🔵 目標管理の導入
~目標管理はバブル後の成果主義で注目を浴びましたが、実は昭和40年代から日 本の企業でも徐々に導入されていきました。筆者の勤めていたメーカーでも、昭和 59年頃導入されました。C&Jという名称でした。C&Jとは『挑戦と実践』の 略語で、挑戦、実践、それぞれのローマ字の頭文字からとっています。評価のため のツールではなく、職場マネジメントのためのツールでした。しかし、あまり定着 しませんでした。形式的で工数がかかる割には得るものが少ないと思われたからで す。

🔵勤務時間の弾力的運用
筆者の努めていたメーカーでは、昭和58年ごろにタイムカードが廃止になりま 5/8 した。私の仕事の一つにタイムレコーダーの保守管理があったのですが、それを機 に業務が一つ減りました。更に、その後、労働基準法の改正に伴い、フレックスタ イム制、裁量労働制、変形労働時間制などの、様々な勤務形態が生まれました。

また、制度関連ではありませんが、

• 事務技術職の中途採用
• 管理職の早期任用
• 人事部の権限委譲
(これについては次項で触れます) なども、拡大していきました。

このように様々な試みが行われた背景には、社会一般に多様な価値観、多様な働き方と いった考えが広まっていったこと、更に、労働組合の力が相対的に下がっていったことが あったのではないでしょうか。

私の若手人事部員時代は、仕事の半分は労働組合との調整でした。既存の権利を守ろう とする労組は、“新しい人事施策の導入=チェンジ”には基本的に反対の立場をとります。 その組合を説得するための資料作りや調整にかかる時間は莫大なものでした。

私の先輩や当時の人事課長は、組合に呼び出されて4~5時間帰ってこないということがざらでした。 今でも鮮明に記憶している出来事として、昭和
60年頃の『監督者販売出向問題』があります。話が本論から脱線しますが、少しご紹介したいと思います。

販売出向制度とは、メーカーから販売会社に2~3年程度営業部員として出向する制度 で、目的としては、

① 販売現場を知るという教育的目的
② 販売の第一線で戦力として貢献するという営業的目的
③ 工場での生産台数が落ちた場合の余剰人員対策

の3つがありました。

大卒社員はほぼ例外なく入社3~5年たった時点で、
上記①の目的で出向するのが慣例 化していました。生産現場では、③の目的で販売出向に出るケースがありましたが、その 際は、一般社員が対象となっていました。

しかし、昭和60年頃、全社の販売台数が大きく落ち込み、②および③の目的で大量の 製造現場の社員を販売会社に出向させざるを得ない状況となったのです。 その時、会社が考えたのは、「今回の出向は、これまで例がないほどの大規模なものにな り、一般社員だけを対象とするのでは納得感が得られない。一般社員の上にいる監督者(工長、係長)も人選に含めて、全社一丸の体制をとるべきだ。」ということでした。

その後、当時“天皇”といわれた労組トップのスキャンダルによる失脚を期に、労使関 係は正常化されました。それに呼応する形で、それまでできなかった各種人事施策もスム ーズに行われるようになりました。 労組は弱体化しましたが、これまで労組が担ってきた牽制機能の多くの部分は、会社自 ら責任を持って自己牽制しなくてはならなくなったのです。 (以上、大脱線となり失礼しました。)

7.人事部の権限委譲=弱体化?

日本企業では、伝統的に、人事部が採用や評価、異動などに関して強い権限を有する集 権型の人材マネジメントが行われてきました。人事部主導による新規従業員の全社一括採 用や人事考課の全社調整はその典型例ですが、この頃から、人事異動やローテーションに 関して人事部から事業部やラインに権限が委譲され、より分権的な人材マネジメントが行われるようになってきました。

筆者が社会人になった1983年当時は、勤務していたメーカーでは、昇格に関しても、 あるいは人事考課に関しても、人事部が全てを把握し、検討・評価するシステムでした。

配属されたメーカーの工場では、昼夜の2交代制勤務が行われていました。人事課に所 属していた私は、所属からの申請に基づき、膨大な数の昇格候補者に関わるヒアリングを対象者の上司と行っていました。通常の勤務だけでは間に合わないので、夕刻いったん独 身寮に帰って仮眠をとり、夜20時頃に再び出社して、夜勤勤務の監督者、管理者とイン タビューをおこなうといった毎日で、「なんて会社に入ったんだ」と思ったことを記憶しています。

そうやって工場全体の昇格候補者のヒアリングを行い、昇格の是非を工場人事で結論付 けると、次は本社の人事部が工場にやってきてその結果をヒアリングして最終判断をくだす、というシステムでした

しかし、1980年代後半になると、このシステムはなくなり、人事部は各部署に昇格 者の枠を提示し、あとは枠内で各部署で決めてください、というシステムになりました。 あるいは、人事考課の予算点を提示して、この予算の中でやりくりしてください、というシステムになったのです。人事部員の負荷は一気に解消されました。

これは、特に事業部制や社内カンパニー制の導入で加速されていったのです。ただし、 現在でも、銀行などを中心に、人事部が権限をもって人事関係の施策をコントロールする、 といった伝統的な方式を継続しているところがあります。

どちらが良いかは一概には言えないと思いますが、私が振り返るに、人事部がコントロ ールする方式は、人事部員にとっては、ハードではありましたが、一方で人事考課の仕組 みや職場の実態などを勉強する意味では、非常に良い経験になったと思います。

今でも、当社のお客様で頑なに旧来の人事システムを堅持しているところがあります。 その会社は、人に対する独自の想いや哲学を持っており、容易に揺るがない強さを備えて いる、と筆者は思いました。

8.バブル経済の影響

昭和60年のプラザ合意に伴い、急速に円高が進みました。当初『円高不況』が起きる と懸念されたため、日銀は低金利政策を継続的に採用しましたが、この低金利政策が、不 動産や株式に対する投機を促進し、やがてバブル景気をもたらすこととなりました。

日本経済は空前の好景気を迎え、株式市場も日経平均株価3万円台の大台を超えるまで になりました。

企業では、人不足、供給不足が深刻化し、人材の確保が最優先課題になりました。筆者 も、1991年から4年半北九州の工場に勤務しましたが、採用一色の日々だったことを 記憶しています。


当時の採用は製造現場の一般社員が対象で、新聞チラシなどを行い職安(今のハローワ ーク)で説明会と面接を行う、というものでした。一日に2~3の職安を回りましたが、 8/8 ある職安で面接を終えて次の職安に行くと、既に30人ほどの応募者が待っている、とい った状況でした。移動途中で買ってきた弁当を食べる暇も無く、説明会を始めた記憶があります。

この時代においても、職能資格制度を柱とした人事制度が維持・強化されました。皮肉 なものでバブル景気とともに、一部で懐疑的な意見が出されていた終身雇用をふくめた日 本的経営システムへの称賛がちまたに氾濫しはじめたのです。 このバブル時代の「年功賃金をベースに含んだ職能資格制度」は時代の後押しを受け着 実に日本企業の中に浸透していき、その制度が取り入れているかどうかが、会社のレベル とみなされるような風潮まで作り出したのです。

年齢の上昇とともに半自動的に等級が上がり給料が上がっていくという制度は、まさに サラリーマンにとっては魅力的な制度だったのです。

9.総括

今号で紹介した時代は、その前後、すなわち「戦後期」(前号掲載)と「バブル崩壊後」 (次号掲載予定)に比べると、人事制度上の大きな変動はなく、比較的安定した時代であ ったといえます。その中で、職能資格制度および職能給が発展・拡大し、日本の人事制度 の代名詞になるほどに、その隆盛期を迎えました。

背景には、オイルショックの混乱を経て徐々に物価が安定してきたこと、企業内ではそ れまで急拡大を続けてきた組織数や社員数も一定の水準で安定してきたこと、そして、な により『ジャパン・アズ・ナンバー1』に代表されるように、日本経済が、グローバルで 大きな成功を収めたことがあげられます。

各企業は、『人事制度の改革・変革』を口にしつつも、成功体験をバックに、本音ではそ の必要性を感じていなかったのです

第1回:人事制度とは何か~日本の人事制度の源流(戦前の人事制度)
第2回: 戦後の混乱期~高度成長期
第3回: 低成長~バブル
第4回: バブル崩壊~成果主義~ポスト成果主義
第5回: 変遷をたどって見えるもの~これからあるべき人事制度は

執筆者:下津浦 正則
株式会社マネジメントサービスセンターチーフコンサルタント。1983年一橋大学卒業後、日産自動車株式会社、タワーズペリン東京支店を経て、2002年株式会社マネジメントサービスセンター(MSC)入社。食品、精密機器、建設、不動産、流通、保険と幅広い業種を受け持つ

会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円 (令和 2年12月31日)
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント


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