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日本の人事制度の歴史を振り返る~第1回~人事制度とは何か~日本の人事制度の源流(戦前の人事制度)

1.概要

皆さんこんにちは。今回から5回シリーズで、日本における人事制度の歴史・変遷をご紹介します。「なぜ、人事制度の歴史なのか」、と唐突感や違和感をもたれる方も多いかもしれません。今回の連載は、梅島顧問からご提案頂きましたものですが、まず、連載を始めることとなった背景について触れたいと思います。

マネジメントサービスセンター(MSC)は、企業における人材に焦点を当てています。

『求める人材像を明らかにし、現在の人材の能力レベルを診断し、不足部分を最大限に伸ばす』ことをサービスの基本コンセプトにしています。

この中で、求める人材像については、必ずしも不変なものではなく、時代の流れの中で変化するものと捉えることができます。それを色濃く反映したものがその時々の人事制度です。

“どのような評価の基準なのか”、“何に対する賃金なのか”、“何を持って社員を格付けるのか”、といった人事制度の切り口からの考察は、その時々の企業の人材に対する考え方を知ることに繋がります。それらを時系列的に整理・考察することが、『では、これから企業に求められる人材像とはどういったものなのか』と考えるきっかけになり、ひいては、今後の、MSCのサービスのあり方・可能性を見出す機会に繋がるのではないか、と考えたのです。

第1回目の今回では、まず、人事制度とは何か、という定義的なものについて触れます。次に、日本の人事制度の源流、すなわち戦前の人事制度に関して紹介したいと思います。


なお、2回目以降は、以下の内容を考えています。

第1回:人事制度とは何か~日本の人事制度の源流(戦前の人事制度)
第2回: 戦後の混乱期~高度成長期
第3回: 低成長~バブル
第4回: バブル崩壊~成果主義~ポスト成果主義
第5回: 変遷をたどって見えるもの~これからあるべき人事制度は

2.人事制度とは何か?

まず、人事制度とは何か?について触れてみたいと思います。

人事制度とは、広く捉えると、「企業の中で働く社員の労働条件について定めたもの」ということができます。例えば、“労働時間は何時から何時までか”、“初任給はいくらなのか”、“毎年の昇給額はどうやって決まるのか”、“年次有給休暇は何日あるのか”、“肉親が亡くなったらいくら慶弔金が出るのか”・・・などなど。これらの中の多くの部分は、労働基準法(昭和22年制定)にその最低水準が定めてあります。

従って、企業の独自性を発揮できる部分は、労働基準法他の法令で定めた部分を越える部分だということができます。

広義の意味での人事制度は以上のようなものですが、一般的に人事制度の中核をなす制度としては、以下の3つの制度があげられます。

1.等級制度 ~社員の社内での格付けを決める制度です。
一般的に“主査、主事、社員1級、M1・・・”等で表現されるものです。この等級制度を基盤に、評価制度や賃金制度が構築するのが一般的です。 等級制度では、“何をもって格付けるのか”、が重要になってきます。「役割の大きさ」、「職務の複雑困難度」、「能力のレベル」などなど、考え方は様々ですが、理論と実際(運用)の両面から捉えることが重要です。例えば、制度上は「能力のレベルで格付ける」と定められていたとしても、実際には、社歴順(年功)で昇格が運用されている、といったケースなどがある。

2.人事考課制度 ~社員の一定期間中の業績、能力、取り組み姿勢を人事労務管理が定めた制度・方法によって評価し、能力開発や処遇に反映する制度です。
人事評価、人事査定などと呼ばれることもあります。 等級制度同様、何を評価するのか、が重要な要素となります。一般的には、「業績」「能力」「取り組み姿勢」の3つの要素で構成されたり、これらの内の2つで構成されたりするケースが多いようです。但し、「業績」といっても、「期首に立てた目標の難易度や達成度で評価する」といったもの(これを目標管理制度と呼びます)から、もっと、ざっくりと「仕事の質と量で評価する」といったものまでヴァリエーションは豊富です。 「能力」に関しても、「具体的な発揮行動(コンピテンシー)で評価する」といったものから「潜在能力を評価する」といったものまで多様に分かれます。さらには、評価期間(一年?半年?)や処遇にどう反映するか、など、様々な選択肢があり、企業の人材に対する哲学や求める人材像などが色濃く反映されます。

3.報酬制度 ~社員の労働の対価としての賃金や賞与、退職金を決める制度です。
3つの柱となる制度の中では、前2つの制度の受け皿となる制度です。 賃金や賞与は社員にとっては労働の対価、生活の糧となります。会社側にとっては労務費というコストになります。一定の制約条件の中でどう配分するのが最も効果的か、という視点が必要になってきます。「賃金と賞与の割合」、「毎年年の昇給の考え方」、「退職金の考え方」など、ここでも企業の人材に対する考え方が色濃く反映されることとなります。 因みに、報酬に関しては、「労働基準法」や「最低賃金法」などで一定の法的制約があることに加え、「不利益変更」に関する裁判例も数多くあり、センシティブで取り扱いに注意すべき領域になります。

以上の、3つの人事制度を中心に、日本の人事制度の歴史を振り返ってみましょう。

3.戦前までの人事制度

日本の人事管理の特徴であるといわれてきた、「終身雇用」、「年功賃金」は、いつ、どのように形成されたのでしょうか。原点は、日本の共同体のルーツである「村」に行き着くといわれています。

村の中には暗黙のルールがあり、それを破ると「村八分」となります。一旦「村八分」と看做されると、葬式と消火活動以外は村人として扱かわれませんでした。組織のルールに従い、組織の中で認知されることが、村人としての絶対的な価値基準でした。組織の中では上下の区分など厳しいルールがありましたが、その見返りとして、組織は村人を抱え込んで守ったのです。

この原理を強化・発展させたのが、武士道と儒教です。武士道のエッセンスは君主に対する忠誠であり、滅私奉公です。「君主に忠誠は誓うが最も大切なものは自分自身の誇りである」とする欧米の騎士道とは一線を画する考えでした。

儒教の思想は、他人に対する自己犠牲と、親兄弟や目上の人に対する尊敬と忠義であり、これも、「神の前では全員が平等である」とする欧米のキリスト教とは一線を画する考え方でした。

このような原理・風土が人事の仕組みとして具体化されたのはいつなのでしょうか。江戸時代の商家であるという説もあれば、ブルーカラーに対する起源として20世紀初頭からスタートしたという意見もあります。また、もっと古く大宝律令の時代にまで遡るという説もあります。

しかし、考え方や価値観は各時代の影響を受けたものの、これらが現在の人事制度の祖先という訳ではありません。現在の制度の源がはっきりと制度に反映されたのは昭和になってからです。例えば賃金についていえば、戦時体制化で年齢・勤続を基準に賃金・昇給を決定するという法令が出されており、これにより年功制あるいは属人的要素に基づく賃金決定の基礎が築かれたと言えます。そして、これらが十分に確立されるに至ったのは戦後からです。

明治維新から戦前にかけての期間は、欧米流の文明が導入された時代ですが、こと産業に関して言えば、全般的には中小零細企業の圧倒的比重、就業構造の近代化の遅れ、労働法の不整備によって労務管理は立ち遅れていたといえます。そして、前述の主従関係を重んずる風土から、身分制的上下関係における使用者の従業員に対する生活扶助責任と後者の前者に対する無限定的な忠節と奉仕という職業生活の倫理観がその中心を占めていたといえます。

戦前の日本では,等級制度は、職工員(ホワイトカラーとブルーカラー)の身分差を基盤とした身分的資格制度が中心でした。大企業の従業員は学歴に応じ,つぎのように異なった身分に分けられていました。

最上位にあったのは正社員で,その多くは大卒や高専卒,採用は本社でおこない全国の事業所に配属されました。この慣行は現在の総合職に引き継がれています。

つぎは中等教育修了者を対象とする準社員です。准員,雇員などとも呼ばれた彼らの多くは,事業所限りの雇用で,主として事務や技術関係の定型的な業務に従事し,社員の補助的立場におかれました。正社員と準社員の間には,給与,賞与,昇進,社宅の有無や大きさなど,その処遇にさまざまな相違がありました。

とくに大きな違いは給与で,社員は年俸あるいは月給制,時間外手当などは出ない反面,長期でなければ欠勤しても給与が減らされることもありませんでした。一方,準社員は日給月給で,欠勤すれば減給され,会社が定める休日も無給でした。社員・準社員の下には,給仕や用務員などの傭員がおり,ブルーカラー労働者なみ,あるいはそれ以下の処遇でした。

ブルーカラー労働者は義務教育修了以下の者に限られ,職工,工員などと呼ばれました。工員の中から準社員へ昇進し,さらには社員にまで登用する制度を設けていた企業もありましたが,一般には工員と職員の間には容易に越えがたい溝がありました。

工員の賃金は,個々人の生産量が計測できる職務では出来高給が一般的で,そうでない場合は日給か時間給でした。したがって,工員に対する出欠・遅刻の管理は厳しく,工場への出入に特定の門を通ることを義務づけていました。また,退出時には,製品や材料を持ち出していないか身体検査を行うことも多くの企業で実施されていました。

以上のような身分に応じて,給与水準も大きく異なりましたが,さらに賞与が収入格差をいっそう大きなものとしました。職員の賞与は,地位が上になるほど支給率も上昇し,月給の2年分に達することさえ稀ではなかったのです。

一方,工員の場合は,皆勤者に対する褒賞的な〈賞与〉が支給されたにすぎませんでした。もっとも1930年代になると,多くの企業で工員にも賞与を出すようになっていきましたが,その額は多くても賃金の1ヵ月分程度でした。このほか,退職手当などの諸手当や,社宅の広さや設備の優劣など,身分により処遇は大きく異なっていました。

人事考課という言葉が初めて文献に登場したのは1937年です。

それまでは、適性考査、人物評定、あるいは、公務部門においては、勤務能率評定、勤務成績評定という言葉が使われていました。

考課の言葉の由来は、漢書などの中国の古典やその解説書に登場する言葉で、歴代王朝の制度で「官吏の成績を調べること」に由来しています。あるいは奈良時代に藤原不比等が編纂を推敲した養老令の一編が「考課令」であったことに由来するともいわれています。これは1万人以上の当時の国家公務員の勤務評定制度を定めた行政法で、毎年10月から12月までの人事考課業務は、「考中行事」として有名であり、全国に分散配置された公務員について、精緻詳細な手法で驚くほど綿密に行われました。

「考」とは勤務評定、「課」とは任用試験を意味します。日本では任用試験は初期に廃れて、30階に及ぶ身分(位)を柱として人事考課は専ら上司による勤務評定書の提出を材料として行われました。現在の叙勲における勲○等や正○位という名称はこのなごりです。

中国で起こり奈良時代に日本に導入された官吏考課制度は、程なく形骸化し実施されなくなりました。それから1000年以上たった1920年代に米国の人事査定制度が導入されました。このとき、本来であれば官吏の制度であった考課ということばが、民間企業にも適用されるようになったのです。したがって、中国から奈良時代に伝来した考課制度は名前こそ受け継いでいるものの、現在の人事考課の先祖というわけではありません。

米国の人事査定制度がはじめて日本に紹介されたのは、1920年です。内容は、陸軍評定尺度法であり、民間企業の査定方法が始めて紹介されたのは1925年になります。これらを踏まえ、日本企業としてはじめて導入したのは日本製布㈱(京都伏見)という企業です。当時、適性考査法という名称でつかいました。以降、1920年代後半にいくつかの実施例が見られました。しかし、この時期の人事考課は、総じて上司による主観的・包括的な考課であり、客観的・分析的な人事考課が導入されるのは1950年台に入ってからになります。

身分的資格制度の中でも触れたとおり、日本の戦前の賃金制度は、等級制賃金制度を採用していました。賃金の熟練度別格差が大きい工場労働では細かく等級が別れており、男女によっても大きな差がありました。ただ、その等級を決めるのは、明確な資格試験があったわけではなく使用者の恣意的なものによる部分も大きかったようです。その後、戦時労働政策の影響を受けながら年齢昇級のシステムができあがっていきました。

明治期の賃金体系は「技倆刺戟的等級別能力給」と規定でき、生涯奉公の社員と短期雇用の職工の間の厳然たる身分差を前提としつつ、いずれについても「技倆上進、成績抜群」の者を増給させる仕組みでした。渡り職人にみられるような頻繁な労働移動と横断的職能別組合の結成という明治期の労働事情は、この原形の上に成立したものです。

大正期の賃金体系は生活賃金的配慮と労務管理賃金的配慮が組み合わされた勤続給と規定されています。第一次大戦後の不況とロシア革命の影響による社会主義に対処するため、それまで現場の親方に配下の職工の管理を一切委ねていた「間接統治」を改め、本社に専門部門を設けて労務管理を遂行していく「直接統治」とし、また新卒の若年者を採用して企業内で養成する「子飼い」の仕組みが普及しました。

こうした労働市場の企業別封鎖分断化に応じて、賃金制度にも勤続手当や年功による昇給がみられるようになりました。もっともこれは大企業の基幹工だけで、中小企業の世界は頻繁な労働移動と横断的労働組合が主流だったようです。

昭和に入ると徐々に長期雇用が実現されるようになり、賃金も長期雇用を想定した形で議論されるようになりました。昭和4年の世界恐慌の中で、労務費の削減と賃金体系の合理化が企図され、年功制から職務給一本に向かうべきとの思想が出てきました。1932年には商工省臨時産業合理局生産管理委員会の報告「賃金制度」において、「仕事の種類によって、欧米の例の如く数段階に分類して、その各に対し一定の基本給額」たる職務給を支払う方向を示しています。また、「一職場内の労務者の給額は職場の難易によりて数段階に分けて職務給とする」とあります。

ところが、日中戦争から大東亜戦争へと進む中で、賃金制度は全く逆の方向、すなわち労働移動が禁止され、終身雇用を促進する方向に向かいました。(従業員移動防止令)。これは、当時の熟練工の激しい移動を抑制しようという目的で導入されました。同時に、未経験工に対する賃金統制令が導入され、その中で標準最低賃金の考え方が盛り込まれたことは注目に値します。賃金と昇給、キャリアルート、訓練、生活保障、といった長期的な視点からの賃金設計の思想が芽生えてきたといえます。

これらの動きは、ある意味で近代的ではあったものの、画一的な年齢給の形をとった家族扶養的生活賃金の確立に向かう流れとなりました。軍部にとっては、皇族に連なる家族主義という戦時プロパガンダに沿うものであり、人々にとっても戦時期の生活苦の中にあって、魅力をもつ考え方であったのです。

執筆者:下津浦 正則
株式会社マネジメントサービスセンターチーフコンサルタント。1983年一橋大学卒業後、日産自動車株式会社、タワーズペリン東京支店を経て、2002年株式会社マネジメントサービスセンター(MSC)入社。食品、精密機器、建設、不動産、流通、保険と幅広い業種を受け持つ

第1回:人事制度とは何か~日本の人事制度の源流(戦前の人事制度)
第2回: 戦後の混乱期~高度成長期
第3回: 低成長~バブル
第4回: バブル崩壊~成果主義~ポスト成果主義
第5回: 変遷をたどって見えるもの~これからあるべき人事制度は

4.会社概要

会社名:株式会社マネジメントサービスセンター
創業:1966(昭和41)年9月
資本金:1億円 (令和 2年12月31日)
事業内容:人材開発コンサルティング・人材アセスメント

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