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リップマン著「世論」⑦ニュースの本質・新聞の役割🫡

民主主義にとって大切な「国民の意志」の根拠となるべき情報はどこからくるのでしょうか?

民主主義の先駆者は「国民の意志はどんなときにも存在する。見出しさえすればよい。」
と考えていました。
つまり、民主主義者たちは世論形成の問題を市民的自由の問題の一つとして取り扱ってきたのです。真実を認識する能力はあらゆる人間に備わっており、自由な状態で伝達される真実は受け入れられるとしたのです。
しかし、この意味での市民的自由は現代世界における世論の成立を保証するものではありません。
遠いところでの問題あるいは入り組んだ問題については、真実はおのずからあきらかというわけではありません。
情報収集の仕組みは専門技術を必要とし、費用もかかるのです。
見ることのできない世界を近代国家の市民たちに見えるようにするための主要手段として、新聞報道などのジャーナリズムは広く認められています。
新聞はわれわれが関心をもっている外部世界の全容をあらわす真実の映像をわれわれに提供してくれると考えられているのです。


ではニュースとは一体何なのでしょうか?!

世の中のあらゆる出来事がニュースになるわけではありません。
事件が人目に触れやすい場所でステレオタイプ化されたかたちをとることによってニュースがあらわれるのです。

どんな出来事でもそれが目をつけられ、客観化され、測定され、名づけられるような要素を多くもっているほどニュースが成立する機会も多くなります。
すぐれた記録システムのあるところでは近代的なニュースの提供がひじょうに正確に行われています。
記録されていない出来事についてはそうした出来事の出口を公然と作ってくれる「広報担当者」が企業や役所におかれています。
広報担当者は検閲官であり宣伝家で、公衆への情報はまず彼らによってふるいわけられます。広報担当者の存在は、現代生活における諸事実が自然のままでは報道されないことを示しています。


政治問題でも国際問題でも、ニュースはある出来事のはっきりしている局面でしかも一般大衆の興味をそそるものを取り上げているのです。
大衆にとってセンセーショナルな事実がほとんどすべてのジャーナリストの求める事実となります。
大衆の内なる感情を呼びさまし、報道されている内容に個人的な一体感を覚えるように仕向けるのです。

ドラマに参加するように個人的な一体感をもってニュースに参加するのです。
そのためにはなじみ深い足がかりを見いだす必要があります。
そのためにステレオタイプが用意されます。

ニュース面があまりに複雑で一体感を覚えない場合には、記事に没入できるような手がかりが提供されます。
ある種の暗示が与えられるのです。


ニュースと真実は同一物ではなく、はっきりと区別されなければなりません。
ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することです。
真実のはたらきはそこの隠されている諸事実に光りをあて、相互に関連づけ、人々がそれを拠り所として行動できるような現実の姿を描き出すことです。
社会的諸条件が認知、測定可能なかたちをとるようなところにおいてのみ真実の本体とニュースの本体が一致します。

ジャーナリストは自分が弱いものだということを理解すればするほど、客観的な検査方法が存在しない限り、自分自身の意見のかなりの部分が自分自身のステレオタイプ、自分自身の規範、自分自身の関心の強弱によって成り立っていることを抵抗なく認めるようになります。
ジャーナリストは自分が主観的なレンズを通して世の中を見ていることを知るようになります。
ジャーナリストに可能でもありまた要求されている仕事は、人々の意見形成のもととなるいわゆる真実といわれるものが不確実な性格のものであることを人々に納得させること、批評と煽動によって社会科学を刺激し、もっと役に立つような社会事象の体系作りをさせること、そして政治家たちを突っついてもっと目に見えるような諸制度を確立させることです。
言いかえれば、報道可能な真実を広げるために戦うことができるのです。


しかし、新聞は「世論」という民主主義理論が要求するものを提供することはできません。

民主政治は、新聞が自発的に各政治機関、あらゆる社会問題のために、情報機構の役割を果たすことを期待しますが、新聞はきわめてもろい存在ですから、人民主権の重荷をぜんぶ負うこともできないし、自然に手に入るものと民主政治論者が希望的に思っている真相を自発的に提供することもできません。


執筆者、ゆこりん

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