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歴史の事実を隠蔽?群馬県の朝鮮人追悼碑を強制撤去?!

群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」に朝鮮人の追悼碑がありました。
碑は戦時中に朝鮮半島から動員され日本で過酷な労働をさせられて亡くなった朝鮮人を悼む目的で、市民団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」の前身の団体が、2004年4月に570万円かけて建てたものです。

ところがこの碑が1月29日行政代執行法に基づき、群馬県によって撤去されてしまいました。


設置条件に反したこと、それが理由として挙げられていました。

そもそも碑の建立は、県議会が全会一致で賛同し、県が場所を提供したものです。
碑文は村山談話(1995年)や日朝平壌宣言(2002年)などを踏まえて県とも協議して決定しました。
「強制連行」という表現はなく「労務動員」としたように、「宗教的・政治的な行事をしない」という設置条件がつき、設置許可は10年間で、2014年に再度県の許可を申請しました。

ところが、この碑を疑問視する団体「日本女性の会 そよ風」が12年頃から、「反日的だ」と主張し始めました。
碑の前で行った追悼式で「強制連行の事実を訴え、正しい歴史認識を持てるようにしたい」などと発言した人がいたことを問題視したのです。


県はなんと05,06,12年の追悼式で「強制連行」などと発言したことが政治的発言にあたるとし、設置条件に反する行為があったと認定。
碑の設置を不許可としました。


碑文を守る会はこの処分を不服として裁判所に提訴。
しかし東京高裁は「中立的な性格を失い、前提を失った」として県の処分を「適法」としました。
この判決が22年に最高裁で確定し、県は23年4月撤去命令を出しました。
10月には、年末までに碑を撤去するよう「戒告」し応じない場合は代執行すると伝えました。
県は「代替地を提示するなど自主的な撤去をうながしたが応じてもらえなかった」ということで、1月29日公園を閉鎖して碑を撤去しました。


守る会によると判決確定後、県は話し合いを3回ほどしかとってくれませんでした。
県が提案した代替地は山奥などでありとうてい了承できる感じではなく、碑の移転先としては不適切であると判断しました。


そもそも、追悼碑は、先の大戦中に朝鮮半島から多くの人を動員し日本各地に連行して過酷な労働に従事させ多くの犠牲者をだしてしまったことを反省し、将来にわたって日韓・日朝の友好を図っていこうという目的で建てられたものです。
二度と同じ過ちを繰り返さないよう誓いをたてたものです。
碑がなくなれば、過去の日本の加害の歴史が忘れられ、なかったことにされてしまうでは。

追悼文には議論のある「強制連行」という言葉はありません。
碑の前の集会で一部の人が「強制連行」という言葉を使ったことは事実としても、個人には「表現の自由」が認められており、各自がみずからの歴史認識を明らかにしてもそれはとがめられることではないでしょう。
しかもその後10年以上追悼集会も開かれていません。



群馬県の山本一太知事は、碑の目的は日韓・日朝友好だとした上で、「市民団体側が違反行為を繰り返し、存在自体が政治的な論争の対象に発展してしまった。碑を公園に置いておくことは公益に反する」と主張していますが、この場合の公益とは何かはっきりしません。

「撤去することと歴史認識をねじまげることは私の中ではつながっていない」としていますが、屁理屈に近い形式的なルール違反を理由として歴史修正主義者の横やりに賛同しており、歴史の歪曲に加担したとみられてもしかたがないと思います。

同じような事例が各地で広がっています。
いずれも第二次世界大戦中に工場や炭鉱などで過酷な労働を強いられた朝鮮人労働者に関するもので、遺構や碑文に抗議が寄せられています。
いずれも「強制性」が問題視され、なかには撤去されたり、「強制」という言葉が削除されたものもあります。


群馬県のように追悼碑が撤去されると、同じように他の碑にも撤去を求める動きがでてくるかもしれません。
撤去は悪しき前例です。


私たちは、「あったことをなかったことにする」動きには強く反対します。
群馬県は今からでも追悼碑を元に戻すべきです。

過去に目をつぶることなく、直視したうえで二度と同じ過ちを繰り返さないことが、先の大戦の多くの犠牲者に対する責任だと思います。



執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン

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