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犠牲者意識ナショナリズムードイツの場合(その5)

前回からの続きです。



イランがイスラエルを攻撃しました。
戦争はますます拡大していきます。

先日、中米ニカラグアがイスラエルに武器援助しているということでドイツを国際司法裁判所に訴えました。
なぜドイツはガザを攻撃し続けるイスラエルを支援するのでしょうか?
長年ドイツは過去の加害行為を謝罪し省みる模範国家と言われてきました。
しかし、今回のイスラエルの行動に対する態度はどうでしょう。
実はドイツは自らの加害の過去には向き合ってこなかったのでしょうか?



ホロコーストに無関心なドイツ

私は、終戦直後のドイツは戦後の悲惨さから英米仏の占領当局に苦しめられていると思っていました。
しかしナチズムもホロコーストも、戦争に対する自分たちの責任は忘れ去っていたのです。
西ドイツではドイツ人はまずヒトラーの犠牲者であり、その次に連合国の犠牲者だったのです。
ナチの残虐行為やホロコーストはヒトラーとその側近のやったことで犯罪者たちはニュールンベルグ裁判で裁かれたことになっていました。一方追求を逃れた元ナチ高官たちは闇市で手に入れた証明書で身分を偽って逃げていました。

東ドイツでは、反ファシズムの国だからナチの犯罪とは無縁だとされていました。
ナチの犯罪は独占資本主義の国西ドイツのものだったのです。
さらに東ドイツの記憶の中には英米による無差別空爆で命を落としたドレスデン市民の犠牲の記憶がありました。
さらにドイツ統一後の東ドイツにはスターリン主義の犠牲者も加わりました。
東ドイツの人々はナチズムと米帝国主義、スターリン主義という三重の犠牲者になったのです。
東ドイツには被害者しかおらず加害者は消えました。
その結果西ドイツ東ドイツ共にイスラエルに対する謝罪と賠償には消極的でした。

西ドイツでは戦後東欧から追放された約1200万人のドイツ民間人へのソ連赤軍の暴力とスラブ諸国の報復の記憶が中心に据えられました。
彼らは避難するときに、ソ連軍の砲撃と空襲にさらされたうえ、前例のない規模の性暴力、ポーランド人とチェコ人による残忍な報復殺人と暴行、殺人的な寒さと飢えに苦しめられたのです。
追放されたドイツ人を臨時に収容したポーランドやチェコの抑留収容所はナチの強制収容所のコピー判のようなもので、マフィアのような集団が運営にあたることも多かったです。
ユダヤ人とスラブ人がいなくなった場所に入れられたドイツ人はナチがユダヤ人に加えた蛮行とほぼ同じことをされました。
少なくとも50万人、最大で200万人が犠牲になったとみられています。
冷戦下の反共主義によって「野蛮な」スラブ系の共産主義者に抑圧された犠牲者という位置づけが固まり、その記憶が一方的に強調されることで、スラブ系民族の隣国に対するドイツの植民地主義とナチによる迫害の記憶は消えました。



ホロコーストを絶対化するドイツ

1963年のフランクフルト・アウシュビッツ裁判をきっかけに、1960年代末以降、加害者であるナチスドイツへの自己批判と省察が西ドイツの記憶文化を支配するようになります。


2020年アキレ・ムベンベ論争

アフリカの代表的な脱植民地主義の理論家ムベンベは、2020年8月に予定された文化イベント「ルール・トリエンナーレ」の開幕スピーチを依頼されました。
これに対して同年3月、ドイツ政府で反ユダヤ主義対策を担当するフェリックス・クラインと自由民主党所属の地元政治家ロレンツ・ドイチェがムベンベの招待を取り消すよう組織委員会に要求しました。
ムベンベがイスラエルという国家と南アフリカのアパルトヘイトを同一視することによって、ホロコーストを絶対的なものではないと論じる相対化を図ったというのが理由でした。
イスラエルに疑問を投げかけるムベンベの立場はイスラエル国家という存在を擁護してきたドイツの長年の政策に反するとして、クラインらは州政府からのイベントへの助成撤回も示唆しました。
この批判の背景にある心理は、他のいかなる痛みや悲劇であってもホロコーストとの比較は受け入れがたいというものです。


ホロコーストからの教訓は大きく分けて二つの解釈を生みました。
一つは世界人権宣言(1948年)に代表される流れ。「人類の良心を踏みにじった野蛮行為」であり、他のジェノサイドや独裁、植民地主義、アパルトヘイトなどにも反対する普遍的なものとする立場。
もう一方は、ユダヤ人に対する犯罪だという狭い立場にたつものです。
自らの加害者性を切実に自覚するドイツではホロコーストと他の犯罪との比較はナチの犯罪を矮小化させたり、ドイツ人の歴史的な責任感を薄めたりするのではないかというおそれがありました。

背景には1986年~87年に起きた歴史家の論争があります。エルンスト・ノルテらは当時、ホロコーストはスターリンから学んだ「アジア的行為」だと規定してナチに免罪符を与えました。
責任をソ連に押しつけるノルテらのナチ擁護論への警戒心が、ホロコーストを他と比較すること自体への懸念を生んだのです。
しかし、他の歴史的悲劇との比較すら否定するのはホロコーストを絶対的なものとすることにつながります。



ドイツはホロコーストについては徹底的に批判的であったものの、自らの植民地主義の過去は忘れてきたというのが戦後ドイツのもう一つの顔でした。

たとえば第一次大戦前に植民地支配していたナミビアで1904年から08年に行われた虐殺は長い間忘れられていました。
ホロコーストを他に比較しようのないものだとする唯一性にとらわれて、アパルトヘイトや植民地主義ジェノサイドとの比較を否定するにとどまらず、イスラエルのシオン主義的な政策への批判にまで反ユダヤ主義というレッテルを貼ってしまっています。
ナチの東方政策とホロコーストを植民地主義からつながっているものとして批判的に相対化することで植民地主義の暴力にも目を向けることができるでしょう。



ドイツなどの欧米諸国がイスラエルの行為を批判しないことが、イスラエルの軍事行動を過激化させパレスティナ問題の解決を困難にしているのだと思います!


執筆者、ゆこりん

参考文献
「犠牲者意識ナショナリズムー国境を越える「記憶」の戦争」林 志弦

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