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公民権運動の象徴!キング牧師について!

アメリカの公民権運動の象徴とも言われるマーティン・ルーサー・キング牧師について紹介したいと思います!

引用先https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8B%E3%82%A2


キング牧師は1929年1月15日、ジョージア州アトランタにあるオーバーンという黒人コミュニティで生まれました。
当時のアトランタは、白人27万人、黒人9万人を超える南部の中心都市で、人種分離が厳格に行われる「分離し不平等な社会」でした。
キング家は、曾祖父、祖父、父と3世代にわたりバプテスト教会の牧師でした。

南部の黒人教会は、そのルーツを奴隷制下の『見えざる教会』と呼ばれる秘密の礼拝集会にさかのぼります。黒人の奴隷たちは、「見えざる教会」で、奴隷説教者がひたすら説く、神による奴隷からの解放の日を夢見て奴隷としての苛酷な日々を生き抜きました。
そして、南北戦争後は「見えざる教会」は「見える教会」黒人教会となり、黒人の生活を支える相互扶助組織のようになります。
礼拝と洗礼以外に、医療、介護、結婚、葬儀、日曜学校から政治集会の場として黒人の生活を支えます。
同時に黒人たちの精神的よりどころとしての役割も期待され、黒人教会の牧師は、精神的にも政治的にもコミュニティの指導者であることが期待されました。

このような教会の牧師の愛情あふれる家庭でキングは育ちました。
教会のある地区の住民は平均的収入の階層で、犯罪も少なく信仰心の篤い地区でした。
キングの父はオーバーンのエベネザー教会の牧師で、その説教の主要なテーマは「社会変革」であり、社会的福音を説き、人種差別を改めるための抗議行動も実践していました。

キングは、南部アトランタの人種的にも経済的にも格差の激しい社会を身をもって経験しながら成長します。

経済的に不安定な友達や貧者の人々は身近にたくさん存在していました。
そこでは貧困な白人も黒人と同様に搾取されていました。キングにとって人種的不平等と経済的不平等への関心は根強いものでした。

キングは、モアハウス・カレッジ、ペンシルバニア州のクローザー神学校、ボストン大学で学び、牧師になる道を選びます。

キングはキリスト教の神学を学んだのは当然ですが、資本主義と共産主義の問題にも向き合い、マルクスやレーニンの文献も調査していました。
その結果、共産主義はキリスト教信仰と本質的には相容れないが、階級なき社会への関心においては正しいとしました。

「利潤追求を基礎とする資本主義は、必然的に貧富の差を不当に生み出す。」
というマルクスの分析は、経済的不平等に関心を持ち続けるキングにとって、大胆な富の再分配の必要性を確信させました。
キリスト教信仰に基づくマルクスに対する批判的な学びは、「貧者の行進」活動へつながっていきます。

ヒトラーの人種主義と第二次世界大戦の傷跡、そして米ソの冷戦という時代に、キングは戦争と平和の問題にも向き合います。
1950年、フィラデルフィアでモーデガイ・ジョンソンによるガンディーに関する講義を聴いたのがガンディーの非暴力主義との接点でした。

その後、ボストン大学で神学を学んだキングは、キリスト教の原点であるイエスの十字架について、イエスは人類をその深い罪から贖うために無辜なる存在でありながら自ら十字架にかかり死を遂げたと考えました。
イエスのこの見返りを求めない愛に基づく犠牲死が人々を改心させたのであれば、イエスの贖罪愛を信じる者もまた、不当に受ける苦痛は人類を教育する力があると信じて行動すべきとなります。こうして導かれた結論が、「理性ではなく、自ら負う苦痛こそが反対者を改心させる。」というガンディーの非暴力哲学の真髄と相通じることになったのです。

その後、コレッタ・スコットと結婚。ボストン大学の学位を取って、1954年9月アラバマ州モンゴメリーのデクスター・アヴェニュー・バプテスト教会に赴任します。
そして、バスボイコット事件と出会ったのです。

(つづく)


参考文献  
「マーティン・ルーサー・キングー非暴力の闘士」
黒崎真著   岩波新書


執筆者、ゆこりん、ハイサイ・オ・ジサン

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