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留学しても変われないかもしれない人間の偏屈特徴(僕個人のことを書いているだけ)

カナダ留学に来て、はや一か月。

僕は割と内向的な部分があり、日々外側からの刺激を分析し、心の機微に耳を傾けている。

とんとん とんとん
「なんだい」と
グラサンを掛け葉巻をくゆらせる、ハートに手足の生えたマスコットが
僕の心臓の扉から顔を出す。鳩時計みたいだ。

うんと我慢して、尋ねるのを控えていたが、
毎日彼の部屋をノックするのが楽しみで仕方がない。
それとも不安で仕方ないかもしれない。

まるで7月からサンタのために煙突を掃除している少年のように。

「どうかな、僕の人生は……いやそれは少しスケールが大きいな
 質問を変えてもいいかな……つまり、今日の僕はまた何か変われたかな?」

彼は紫色の煙をはいて、首を横に振る。
「どうだい、今日の俺は、昨日お前が質問した時よりも何か変わっているかい?そんなくだらない質問をするな、人は多かれ少なかれ閉じ込められているんだよ、べレニスとフランキーみたいにトランプでもするか?」

彼はそう言って、扉を閉める。

なんというか僕は、大きな環境の変化の割に、何か変わっているようには思えない。

では、何を変えたいのか。
それは
『憂鬱な心だ』


『人生を変えるためには環境を変えろ』

大きく環境を変えて、一か月
なぜ、僕はまだ憂鬱なのだろうか

これから数か月たてば、
この憂鬱な心は払拭できるのだろうか。


どこにいても自分は変わらないとネガティブに考えている。


人間の脳は『サニーブレイン』と『レイニーブレイン』とに分かれるらしい。

つまり、簡単に言ってしまえば
「いつも楽しい人」と「いつも楽しくない人」だ。

さらに換言すると
「ポジティブな人」と「ネガティブな人」だろう。

その日の体調や気分、状況、出来事など様々な影響で波はあるが、
自分のブレインベースはサニーなのかレイニーなのかは少し考えてみればわかると思う。

僕は紛れもなく
『レイニーブレイン』だ。

毎日不安だし、何かがいつも怖いし、うじうじとしている。
明るい人生を期待してもいない。

レイニーブレインの人が留学や環境を変えても
自己認識が「自分なんて思考」や「根っからのペシミスト」のように
自分を捉えるフレームが歪んでいたら、見える景色も歪んでしまう。

そうなると持続的な好奇心や気力、意欲をもって
人生にコミットすることは難しいだろう。

つまり、何かを変えようとしても
自己肯定感が低すぎて
「やったところで自分なんて価値なし循環システム」が作動してしまう。

こういった思考が脳の至る部位に染みついていると(遺伝性もあるかもしれない)結局留学していようが、宝くじで当選しようが(結局幸福度は半年で元に戻ってしまうらしい)うじうじしているだろう。

人とのつながりを避けてしまう、非社交的な人間


人とつながることに極度のプレッシャーを感じ、なるだけ交流を避けたい人は留学をしても(環境を変えても)大して日本の暮らしと変わらないだろう。

海外で新たに友人を作ってみたいな、と淡い希望を胸に微かに宿しながら(それさえも思いつかないかもしれない)結局は本来の「消極的孤独愛好家」みたいな自分の世界と哲学の中に潜る。

内向的な人間やHSPといったタイプは、そうではない人に比べて
人と接することに慎重になってしまうし(積極的にかかわるとエネルギが不足して簡単に病む)相手の何気ない言葉にフルで想像力を働かせるのもしんどい。(もはや被害妄想のレベル)

つまり、新たなコミュニティや人とコネクトするということは、
精神的自殺行為に等しいのだ。

だが、そういった人間が留学するメリットもある
それは
『日本での煩わしいコミュニティをリセットできる』
という点だ。

ただ、留学の動機が日本の交友関係にピリオドを打つためさ、キリっ!となる人はまずいないだろう。

いたとしてもおそらくそれは
ある目的のために、手段として煩わしい日本の交友関係を切ったに過ぎない。

まぁ少なくとも、さほど日本での交友関係があったわけではない僕には関係のない話だが。(いや、同情もコーヒーもいらない)

単純に言ってしまえば、友達が欲しいなぁと思っているけれど、同時に人付き合いがしんどいなぁと考えそうな人は
みんなが楽しそうに過ごしているのを見て、サングラスをしても防げない程眩しい思いをするよ、ということ。

比較大国Japanの不幸の連鎖を断ち切るには、
心のサングラスなるものが必要かもしれない。

妙に小賢しい哲学気どり


「変化とは何か」「仮に変化が定義可能だとして、なぜ、自分には変化が必要なのか」

悶々と考えがちな人間は、どこにいても前進しているのか、はたまた後退しているのか、あるいは停滞しているのか分からない灰色の世界に滞在することになる。

哲学は頭の体操にもなるし、及第点を上げても良い思索の道をたどれたら、世界で一人、雄大な真理の端っこを突けた気がして気分が良いものである。

僕個人の意見だけれど、哲学は数千年前に科学やら経済学に寄与した時点でその役割を終えた学問でもあるような気がする。

だから、学者でもないが妙に哲学を好む人間は適度に頭を悩ませるくらいが程よいのかもしれない。

まさに『中庸は徳の至れるものなり』という具合に。

時には、ゲーム感覚で
課題の設定とアプローチと得られる報酬くらいにシンプルに考えた方が
いいのだろうなぁ、と思う。

まとめ


要するにネガティブでクヨクヨと考えて、人との交流を避けたがる人間は
留学したところで、大きな変化は起こらない可能性があるかもね、ということ。

ただ、僕自身まだ留学して一か月しか経過していないし、変われない要因が上記した3つに収まっているとも思っていない。
もっと複合的だろう。

書けばキリがないほどに。

けれど、他の記事でも書いたが、これは僕の実験だ。
人は何歳になってからでも変わることができるのかと。

また数か月たってこの記事を振り返って適当に書いてみたいと考えている。

もし、変化があったとしたら、数か月後の僕に記事を任せるから
その時を期待したい。

そしたら偏屈留学生にも、少しは有益な情報か、あるいは反面教師の教材をそっと提供して、何かの判断材料になれるやもしれん。

かなり限定的だけれど。





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