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「元気かい、チャイニーズ」

僕は日本人なのか、とたまに思い出す。
それだけ海外生活に馴染んだとか、普段海外の友人と過ごしているとかではない。(海外に友人はいない、日本にも二人くらいしかいない)

話しかけてくる外国人の大抵は、タバコをねだるホームレスか、大麻で気分が良くなった人びとだけだ。

両者に共通しているのはとっくに頭がおかしくなっているという点。
どこかで素敵な魔法にかけられたのだろう。

つまり、この国で僕に話しかけてくるようなやつは、気がふれているという結論。

薄暮の街、薄明かりを灯した街灯の下で、やるせない気持ちを煙草でやり過ごしていると彼らは必ず暗闇から引き連れられた泥みたいな表情で僕の前に姿をあらわす。

「煙草を恵んでくれないか」

「よう、チャイニーズ」

基本的に1本くらいならタバコをあげるようにしているし、
僕は日本人だよと訂正すると、急に酔いがさめたように謝罪されるが、特に気を悪くした覚えもないから微笑んでやる。

財布は軽く明日はどうなるのかわからないが、それくらいの親切はまだ持ち合わせている。いつだって切らすことはないだろう。
そこが不親切な煙草と僕の違いだ。

僕がよく腰掛ける煉瓦製の階段がある広場の前は、通行量が多く様々な人種がどこかへ吐き出されていく。

いったい、そんなにニコニコと笑ってどこへ行くのだろう、と想像するのだけれど、いつもうまく考えがまとまらない。
カフェインが足りてないせいかもしれないし、僕の積んでいるマシンの性能ではもっと単純な予測しか適していないのかもしれない。

ひとつ確実にわかることは、彼らは戦争に行くわけではないんだなという程度だ。

広場を正面にして北西へ伸びた黒いアスファルトの道は、両向かいに飲食店やスーパー、ドラッグストアが上手い具合にはまったパズルのピースのように連なっている。
フードを片手に食べ歩きをしたり、マリファナを吸いながらどこかへ向かったり、ホームレスがゴミ箱を漁ったりと多岐に渡った営みがある。

反対の南東に向かって広がっていく道は、大きなスタジアムが構えていて何かの試合があったりイベントがあると、観戦あるいは参加する人々が取り仕切る小規模なパレードの進行がある。

僕はいつもの階段に座って煙草を吸いながらぼんやりとその光景を見ている。
目の前を流れるコミュニケーションの大半は英語だから何を言っているのかわからない。みんなが楽しそうだ。
僕はアウェーを感じる。

「あ、僕はここでいうところの部外者なのだ」

国籍は日本で、全く英語も話せなくて、華々しい留学生活とは程遠い薄給で生活を成り立たせている。
こちらに友人はおらず、作る気力もなく、僕に話しかけてくるのはホームレスと大麻使用者。

僕はそこで自分が日本人でしかないことを知る。
普段自分の人種や国籍をすっかり遠くの方に置き忘れたバッグのように扱ってしまうのは、関心がないからだろう。

日本に対する愛国心もなければ、日本人である誇りもない。
それと同じように家族に対する愛着も全くない。
一番近くにいる他人という認識以上のなにものでもなくて、
小学生のころ遊んでいて頭をぶつけたコンクリートの方が親しみを感じているかもしれない。

祖父母は僕の境遇に胸を痛めて、ご飯を食べさせてくれたり、何度も山から車を走らせて僕の顔を見に来てくれた。

きっと一種の愛情に近いなにかを僕に与えてくれていたのだろう。
そのときにはもう何もかもが遅かっただけだ。
植物が枯れたあとに急いで栄養剤を注入するように。

気がついたら、僕の関心はとても限定的で現実感のない何かに預けられたまま返ってこなくなった。

「ぼーっとしたチャイニーズが階段に座って物思いに耽ってら」

日本では僕は当たり前のように日本人で誰もそのことを疑わなかったが、ここでの僕はチャイニーズだ。

バンクーバーの中国人口があまりにも多く、チャイナタウンがつくられ、チャイナタウンステーションまである。
歩いているアジア人の言語を聞いてみても大抵中国語だ。
僕をチャイニーズだと間違うのも無理はない。

信号待ち、僕はどこへ行こうというのだろう。
多分、またいつもと同じ場所だ。
最近はずっと心が重たい。
だから自然とタバコに手が伸びる。

観光客があらゆる方向の写真を撮っている。
誰かのミラーサングラスがいたずらに反射する。
リードを離れた犬が人ゴミに溶け込む。

ホームレスが僕を見ている。
煙草を渡した。
「よい一日を」
と僕におまじないをかけてくれた。

反対側の信号のカウントダウンが始まる。
あと7秒で僕の進行方向が青になる。

7、6、5、4、3、2、1

僕を抜かしたマリファナ臭いメキシコ人が陽気に笑いながら振り返った。

「元気かい、チャイニーズ」








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