見出し画像

ワシのぴあの日記

2022年7月19日 

本日はピアノが届く日である。ワシが6000円で購入したその楽器は、正式には「電子キーボード」と呼ぶそうだが、白黒の鍵盤を備える細長い楽器はすべてピアノと呼ぶのだと、一昨年死んだ祖父にそう習った。ワシは先祖の霊を敬う古式床しき男児(おのこ)であるため、敢えて教えに背くことはしない。

ピアノは18時までには届くはずであったが、20時を過ぎても呼び鈴がならない。生来の音痴ゆえに元より「音楽」というものに虫の好かない思いをしていたワシであったが、配送業者の怠慢により、ピアノの上には到着前から理不尽な憎しみが積もってゆく。

21時、ついに呼び鈴が鳴った。配達員への抗議の意を込めて、パンツのままで玄関のドアを開ける。汗だくの配達員はくたびれた顔で「ヘアッス」と一鳴きし、胸の高さほどの巨大な包みを我が家の玄関に押し込むと、小刻みに屁をしながらアパートの階段を駆け下りていった。

ワシは届いた包みの大きさに驚いた。ピアノとは、かくも巨大なものであったか。こいつ、存在感で言えば、冷蔵庫や洗濯機にも負けていない。冷やすことも洗うこともできないくせに、理不尽にワシの部屋を圧迫している。初対面でいきなりマウントを取られて、やや不快になるワシであった。

せっせと玄関から居間まで包みを運び、ぬるい部屋でじわじわと汗をかきながら、カッターを駆使して段ボールを剥ぐ。猫たちが順ぐりに視察に来て、発泡スチロールを盗もうとするので、懸命にケツを振って追い払う。

20分ほどで組み立てが終わった。8段階ある音量を最小に設定して、鍵盤を触ってみる。ボン!空気を読まない爆音が鳴り、モリャマレジデンス中野(木造三階建)がブインと揺れ、デブ猫(五才♂)がイヤーンと鳴いて逃げる。

こんな大音量では、隣の部屋に迷惑をかけてしまう。ワシは大いに良識があるので、そんなことはとてもできん。なんたってワシはマーチン・ルーサー・キングと誕生日一緒だからね。

どうしようか悩みつつ包みを漁ってみると、ヘッドホンとマイクが見つかった。ためしにヘッドホンを繋いで音を鳴らしてみると、ババアの屁くらいの音量に。これで一安心。

マイクは当然のような顔をして同梱されていたが、まったく使い方がわからない。他のメーカーのピアノにもだいたいマイクは付属しているようなので、ピアニストにとって欠かせないアイテムなのかもしれない。だがワシはまだピアニストではないので、わからない。わかる日が楽しみだ。そっと抽斗にしまった。

いざ、如何にもピアノ用ですといった面構えの黒い椅子に座ると、ワシの胸が鳴った。2022年7月19日、ここからワシのピアニスト人生が始まるのだ。まず適当に鍵盤をカタカタ押してみた。才能豊かなワシのことだから、感性に任せて鍵盤を叩けば、自ずとエルトン・ジョンばりの名曲が出来上がるはず。しかし、ヘッドホンから聞こえてくるのは、ボケ老人が弾いた世にも奇妙な物語みたいな不協和音だけ。ワシは絶望した。ワシはボケ老人なのか?

「返品」の二文字がワシの頭を駆け抜ける。ワシの優れた脳みそが、勝手にアマゾンへの言い訳を生成してゆく。

……鍵盤を触ってないのに音が鳴ります❗……

……液晶の表示がおかしいです💦……

……到着時、ダンボールがベコベコでした(汗)(^O^;)……

しかし、そんな下劣な行いをしては、死んだ祖父に申し訳が立たない。人間、嘘をついてはいけない。祖父はよくそう言っていた。爺ちゃん、ワシは今でも教えを守っちょるよ。こないだは東京ばな奈ミルクコーヒー味を供えてごめん。絶対食わんよな。

ワシはピアノに立ち向かう決意を固めた。こう見えてワシは令和の人間なので、教本ではなくアプリを使って練習することにした。シンプリーピアノというアプリ。自分のレベルに応じたレッスンが受けられるらしい。さらにはピアノの音を認識して正誤を教えてくれるとのこと。ワシは嫌な予感がした。音量、足りるかな。

ワシはピクセル6をヘッドホンの両耳でサンドイッチし、鍵盤を弾いてみた。しかしシンプリーピアノからの返事はなかった。ババアの屁じゃいかんというのか。ヘッドホンの端子を抜いてボカーンと鳴らしてみると、シンプリーピアノがチャリン♪と嬉しそうな音を出し、ワシを褒める。のんきなやつじゃ。壁越しに、隣の部屋がざわつく気配がする。宜なるかな。ワシはとりあえず壁に向かって(ノ∀`)アチャーみたいな顔をしておいた。やつらが超能力者であるなら、ワシの謝意が伝わるはず。伝わらなかったのであれば、やつらが透視できんのが悪い。さすがのワシでもそこまで面倒はみられない。

さて、ワシは悩んだ。鍵盤はババアの屁みたいな不快音しか出さないし、アプリは耳癈(みみしい)である。返品するか、それとも諦めずに教本を買って練習を続けるか。

1分後、ワシは考えるのをやめ、猫毛まみれの寝間着を脱いで外に出た。近所の居酒屋のオッサンに慰めてもらうのだ。判断の速さは美徳であると、どこかの誰かが言っていた。

2022年7月20日

目が覚めると、ピアノへの憎しみが薄れていた。

こないだ読んだ本で、能力は生まれつき決まっていると考える子供と、能力は努力で伸ばせると考える子供を比べて、後者のほうが成績良好だという話が紹介されていた。ワシはこれまで前者のガキであった。無勉でトイックー955点を取り、初めて描いた絵が大賞を取り、走り幅跳びで東北大会まで出場したワシは、努力の意味を知らぬ傲慢な愚か者であった。今こそ、この悪しきバイアスを捨て去り、後者のガキになるときである。ピアノは返品はしないことに決めた。いざとなったら近所の救世軍ブースに投げ込めばよろしい。あとは神のお導きに従い、ワシのピアノは然るべきガキの元へ届けられるであろう。届かなかったとしたらそれは神が悪い。さすがのワシも、そこまで面倒は見れん。

ワシはまず、シンプリーピアノをどうにか使う方法を考えた。ヘッドホン越しの音ではシンプリーピアノを鳴かせることはできなかったので、古い有線イヤホンを引っ張り出してピアノに繋いでみた。スマホのマイクにイヤーピースを密着させて鍵盤を叩くと、シンプリーピアノはチャリンと鳴った。喜んだワシはそのまま駆け出して9km走り、風呂に入ってナムルサラダを食べて寝た。

その晩はエルトン・ジョンと日向ぼっこをする夢を見た。青くさい夏草の葉擦れを耳元に聴きながら、ワシらはいつまでもまどろんだ。

2022年7月21日

18時に仕事を終え、しょうもない英会話のレッスンに参加する。90分かけて、インドネシア人クリスから「ハウ・アー・ユー」のつかいかたを教わる。ワシは幼稚園に来たのか?

21時頃に帰宅。仕事も英会話も退屈だ。でも、ワシにはピアノがある。

シンプリーピアノを開いて、いちからピアノを教わっていく。今日はドレミまで習った。

ド、おまえはそんな下にいたのか!五線譜からはみ出ているじゃないか。六線譜にすれば、仲間はずれにはならなかったであろうに。ワシがモーツァルトだったら六線譜にしたのにな。みんな、力不足でごめん。ワシはすべてのピアニストワナビに謝った。イフ・アイ・ワー・モーツァルト、アイ・ウド・メイク・ゼム・シックス・ラインス。おい、合っとるか?クリスよ。これを読んで「五線譜を作ったのはモーツアルトじゃありません❗」とかつまらんことを言うやつは間違いなく周囲の人間から疎ましがられているので、今すぐ山奥に籠って自分を見つめ直すように。今気づけてよかったな。

ともあれ、あとはファソラシを習えばこちらのもの。何でも弾けるはずである。

その晩は、中一に戻って合唱コンクールの伴奏をやる夢を見た。夢の中のワシはうんこを踏んでおらず、口パクもしていなかった。

2022年7月22日

肩がこっている。ピアノのせい?いいえ、在宅勤務をいいことに、ベッドに寝転がって仕事をしているせい。ピアノは悪くない。第一印象こそ悪かったが、ワシはいよいよピアノと和解しつつあった。

今日は復習からスタート。あの暗号にしか見えなかった五線譜が、きちんと鍵盤と対応して理解ができる。ワシは素直に自分の成長が嬉しかった。

昨日の土・味・噌に続いて、ファソを習った。これが非常に難しい。10年前、河合塾模試にてへんさち80を誇り、どんなに勉強をサボっても東北大学志望者の中で一番しか取れなかったこのワシでも、これには非常に手こずった。特にミとファが紛らわしい。ドはおなかが線に貫かれてるから一目瞭然。レは頭が五線譜の一番下にひっついているのでわかりやすい。ソはト音記号の丸まってる部分にある(「ト音記号のトはソなんです!だからト音記号というんですね♪」というなぞなぞのような説明を受けた)。ひるがえって、ミとファは?なんにも特徴がない。

今日の課題曲は歓喜の歌。何度も失敗したが、めげずに繰り返して最後にはきちんと弾くことができるようになった。ワシは20年ぶりくらいに達成感を味わった。出来ないことが出来るようになることの喜びは、かくも絶大なものであったか。生来出来ないことがなさすぎて、すっかり忘れていた。

興奮にまかせて、マルーン5のシュガーに挑戦することにした。もう深夜だったので、イヤホンの音量を一段と下げる。イヤホンから漏れるババアのすかしっ屁(シューガー)に耳をそばだてて、ワシは必死でポロンポロンと鍵盤を叩いた。いやーんと背後で猫(一才♀)が叫ぶ。やかましい、ワシは今、アーチストとして輝かしい第一歩を踏み出しているんじゃ。邪魔をするでない。ぷるるっ。猫がピアノに飛び乗り、ジャラーンと音が鳴った。こいつ、ワシよりピアノがうまい。嫉妬にかられながら抱き上げると、いつものように左肩にガシガシと登られて、またワシの体に穴が増えた。かゆい。

2022年7月23日

昨日でシンプリーピアノの無料範囲が終了したことに気づき、課金をするか一日中悩む。はたしてワシは月に800円ぶんの練習をするであろうか。悩んでも答えは出ないので、近所の居酒屋に行った。お会計8000円。この店主、ワシの勤務先を知ってから、勘定用のどんぶりがひとまわり大きくなった。今日はピーナッツしか食ってないぞ。

飯屋の臭いが移った油臭いからだで帰宅し、無料でできる5分間レッスンを体験。挑むはこどものうたメドレーである。練習のかいあって、ほぼノーミスで完奏。それにしても、かつて食牛の気を讃えられた仙台の神童が、27にしてきらきら星を弾いて喜ぶとは、誰が想像した?人生は誰にも予測出来ない。きらきら星はワシに世の真理を教えてくれた。モーツァルトに感謝。

2022年7月24日

思い切ってシンプリーピアノに課金をした。未来のエルトンジョンに使ってもらえるなんて、幸せなアプリめ。下手な教え方をしたら、7日間の試用期間のうちに解約する心づもりである。

今日は左手の使い方を習った。こゆびがドでおやゆびがソ。運指は思ったより混乱しなかったが、当然ながらト音記号とハ音記号では五線譜上のドレミの位置が違うので、なかなか覚えづらい。

昨日居酒屋で意地悪な中年に「ち、チミは、指が短いカラ💦、うまく弾けないんじゃない蚊ぁ〜❓❗❗❓😅💦💦💦🌟」と言われて落ち込んでいたが、現状ワシのお手手はずっと同じ場所から動かないので、関係なかった。まだドからソまでしか知らないワシ。いつになったらラシが登場するのか、楽しみである。

2022年7月25日

同時にふたつの鍵盤を押せと言われるようになった。ここで問題がふたつ発生。ひとつめ、これまでは「ミ〜♪」といいながらミを叩いていたのに、ふたつ同時では口が追いつかん。ひとまず「ドュミ−♪」と早口で言うことにした。ピアノには早口の実力も必要であるとは、知らなかった。同時に3つ押せと言われたらどうしようかとすこし心配になったが、冷静に考えてそんな人体の限界を超える動作を求められることはまずないだろう。

ふたつめ、2つの鍵盤を同時に押すと、シンプリーピアノがうまく認識してくれない。ワシ、きちんと弾いているのに。ピアノの音量を最大にして何度も挑戦したが、8回目にジングルベル(♬ゆっくり練習モード♬)を弾かされたとき、ついに悔し涙がホロリ。5秒くらい項垂れていたが、猫が早くうんこを拾えと呼ぶので、肉食獣ならではのくっさいうんこを拾い、ついでにトイレを洗って、床に着いた。

2022年7月26日
いい天気だった

2022年7月28日
あつくてたまらん

2022年7月29日
猫の爪を切った

2022年8月1日
突然グーグルプレイに9800円を巻き上げられた。そうだ、ピアノを弾かねば。シンプリーピアノの試用期間は終わった。

改めてジングルベルに挑戦するが、やはりどうしてもワシのドミー♪を認識してくれない。ピアノが嫌になりそうだったので、挫けないために敢えておけいこを中断し、アマプラでキング・オブ・ハーレーを見た。主人公が服におしっこをかけられており、可哀想であった。星3つ。

2022年8月2日

シンプリーピアノは、イヤホンから出るババアの屁では不満らしい。MIDI接続とやらができれば早いのだが、ワシの安物ピアノは非対応である。そこで、音量をもっと良い塩梅にできるよう、音量調整ツマミのついたスピーカーを買うことにした。アマゾンで1700円。ついでにちゅーるもポチリ、4000円。この程度、2時間も残業すれば釣りが出る。ワシはぽちりぽちりとチャットを打った。「伊藤さん、お疲れ様です。明日の田中事業部長向けの資料を詰めたいので、本日2.0hr残業させてください。」大嘘である。死んだジジイの怒鳴り声が聞こえるが、ピアノのためならやむをえまい。ワシのぴあの道は険しい。だからこそ進む価値がある。

2022年8月3日
まだスピーカーが届かないので練習は出来ない。久々に絵を描いた。

ファ〜♪

2022年8月4日

スピーカーが到着した。ツマミによる繊細な音量調節が可能。これを繋いでイヤホンよりやや大きめの音量にしてみたら、ついにシンプリーピアノがドミ~♪を認識!ワシの中のサリバン先生が落涙。

喜びのままに一気におけいこを進め、最初のコースである基本Ⅰを完了。相変わらずドレミファソまでしか弾けないが、両手を使うようになるとにわかに上級者の気分である。これまでの人生で、ピアノの類いは鍵盤ハーモニカしか触ったことがなかったが、あれは片手で弾くものだ。ワシはついに新たな領域に足を踏み入れた。

2022年8月5日

エルトン・ジョンと追いかけっこをする夢を見た。神のちからっ子新聞を読む。

何も考えずに書いたら自分にもダメージ。ワシ、ナヨナヨしたやつだと思われてるの?

2022年8月6日

ついにラが登場!長らくソ止まりであったワシが、とうとう新たな領域に指を踏み入れる。人類にとってはマジでどうでもいい一指だろうが、ワシにとっては偉大なる一指である。

右手は小指を、左手は親指を伸ばしてポロリと弾く。ここでついにワシの頼みの指番号が用をなさなくなってしまう。指番号の一から五がそれぞれドからソに対応していたのに、これからは通用しない。しかし、ここまでの練習の成果ゆえか、音符を見てなんとなくどの鍵盤を叩けばよいかがわかるようになっている。口で音符を口ずさむ必要もなくなった。人はこうやってピアノに慣れていくのである。ワシはまたひとつ成長した。

楽しくなって1時間ほどポロンポロンしていたが、会社の飲み会の時間になったので出発。つまらん自慢をする男ばかりだったのでうんざりし、「ワシ、ピアノのおけいこがあるので…😅💦💦💨」と小四女子のような口実で退散。近所の居酒屋で一杯だけ飲み直し、こないだ見たジョーズ四がいかにつまらなかったかを熱弁した。お会計9000円。おい、無理があるぞ!

2022年8月7日

基本Ⅱコースも終盤である。

今日はポジションの移動を教えられた。右手の親指の置く位置を素早くドからファに移すのである。これでワシはついにドレミファソラシドのすべてを手に入れた。ほぼピアニストと言ってよい。あとは変な眼鏡をかけて前髪を切ればエルトン・ジョンだし、普通のグラサンをかけてごま髭を生やせばビリー・ジョエルになれる。

基本Ⅱの最後の課題はジュディ・ガーランドの『虹の彼方に』。これはポジションの移動もあるし、左手も同時に使う必要がある。まさしく集大成である。結果は一発合格。

ドの位置すらわからなかったワシが、手のポジションを動かしつつ、両手を使って一曲弾けるようになるとは。かつて抱いていた漠然とした音楽への怯えは霧消し、ワシの心は静かな自信に満ちていた。トラックに轢かれずとも、人間は生まれ変われるのだということをワシは証明していた。外でアホな大学生が鳴き、猫がワシの足を撫でた。

2022年8月12日
左手もポジションを移動するようになった。

2022年8月13日
コロナに罹った。











2023年7月3日
今のワシはドの位置すらも覚えていない。ピアノは押入で静かにワシのことを待っており、マイクは未だ抽斗で眠り続けている。
昨年のワシのピアノ道はコロナによって阻まれた。数週間の静養のうちに、おくすりと冷えピタシートはワシからピアノへの熱をも奪っていってしまったのだ。
だがワシは諦めていない。きっと、シンプリーピアノの自動再課金の通知が、またワシにきっかけと勇気を与えてくれるから。
ワシのピアノよ、また会おう。ワシがガノンドロフを倒した後に……。(第一章 完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?