森と。

普段は人間のお手当てを。お休みの日は森のお手当てを。色々と地球で起きている問題への提案…

森と。

普段は人間のお手当てを。お休みの日は森のお手当てを。色々と地球で起きている問題への提案、森への関わりから始めてみます。その先に、みんながみんなに優しい世界があると思って。その記録を少しずつ文章化。

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最近の記事

どうせなら、愛で。

震災で心が震えてる友人に、2年前に1度会ったっきりの人から2年ぶりに来た連絡で友人の弱点と感じているポイントを言わされ突かれ炙り出され、自分のカウンセリングを月5万円で1年半、さらに追加料金込みで総額120万円で受ける様にzoomで2時間説得され、受けることになったとヘルプ連絡がきた。 優しくなれる様に、自分を愛せる様にって。 あなたを開花させてあげるって。 基本、私は本人の判断を尊重する関わり方ですが、判断力の鈍った弱ってる人に古典的な勧誘手法でダッサイことしてるのにオ

    • 視線の先と、その線種。

      「〇〇に似てる」というのが、驚く程に共感し合えなかった。 テレビで見たスポーツ選手が知り合いにソックリで驚いたので、共通の知り合いに伝えたら「えー、そう?」って。 私には2人が並んだら見分けが付かない一卵性双生児レベルに似ていたので、不思議に思って他の人にも聞いたら「んー、言われてみれば少し似てるかなー」と。 最終的に本人に聞いたら、「今まで2、3人に言われたことある。嬉しいよ」って。 しつこい私は、知人達の感覚の中にあるそっくりさん案件を教えてとおねだり。 今度は相手が

      • 記憶の中へ。

        青空を見ても、コスモスを見ても、風の中からローズマリーやラベンダーの香りを見つけても、タブの木に触れても、きっとこの先も自然の中に戻ると思い出す人。 色んなことと記憶が結びついているのだと気付きました。 先月のこと。 ガラリと変わった慌ただしい日々の中で、大切な人が亡くなりました。 私たちの間にはとても温かな愛しい時間が流れていたのに、2人の思い出の中から後悔のポイントを探して拾い集めている自分に気付き、その度に軌道修正しました。 とても不思議でした。 悲しい思い出なんて無

        • 境界線のない世界で、変わり続ける美しさ。

          ずるいなぁ 植物はどうなったって美しい。 チンキの瓶から植物を取り出して観察。 アルコールに溶け出す成分はすっかり出て、色も性質も変わった。 でも、また以前とは違う美しさで輝いている。 美しさも役割も、ずっと同じではない。 色んな変化がいつも続いている。 もしかしたら。 色んな境界線を引いて、分断が生まれて、どれを選んでも悲しくて恐ろしい未来を想像しやすい流れがあるけれど、この日々の新種のストレスで私たちは新たな観察点では強くしなやかに美しくなっている途中だったりして。

        どうせなら、愛で。

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        • 森のお手当て
          5本

        記事

          手と口にひかりを。

          目の前の現象に対して、どう観察するか、どの様に関係していくか、その先にどんなイメージを持ち、どんな感情を主役にして過ごすか。 結局は全て自分次第なのだけれど、ここ最近の世界ではついついしょんぼりになりやすい。 この手は消毒する為のじゃない。 この口は不安や心配を言葉や呼気で出す為のじゃない。 私の手は色んな情報に触れて観察して喜びに繋げる為にある。 この口は歌い、笑い、大切な人と一緒に美味しいのを食べ、対象に情報を言語化して伝える為にある。 あー、やだな。って思いながら

          手と口にひかりを。

          線のない世界へ

          境界線を作りたがるのは、自分は大丈夫だと安心したいからでしょうか。 国、都道府県、市町村、区、家族、、、 そんなに境界線を狭くしていってしまったら、ついには自分しかいなくなっちゃう。 そして、最後には自分をも信じられなくなってしまう。 今まで、区切られる事で辛い思いをしてきたのでは無かったのかな。 傷つけあってきたんじゃなかったかな。 この線の、あっちとこっちで何が違うのだろう。 名前だけもしれない。 地図にしか書いていない、その見えない線。 土壌はちゃんと繋が

          線のない世界へ

          死を内包して生きる。

          先日、山の深いところまで遊びに行ってきました。山のパイセン・フミオさんに誘われて。 わたし「熊に会う?」 フミオ「大丈夫」…後から考えたら、いないとは言ってなかった。 わたし「どんな山?」 フミオ「ちょっとだけ急かな」…主語が「俺には」だったと気付けなかった、わたしがいけない。 車を降りたら、熊の気配。木には爪痕がいっぱい。 「道」って何だろうと、考えさせられるルート。 行き先も来た所も分からない、フミオさんに頼りっきりの山遊びの始まり。 全身を使って苔生した沢を登り

          死を内包して生きる。

          大切だよと、伝える

          頭の中は森だらけだけれど、私にだって大切な人はいる。 数えた事はないけれど。そんなに多くはないけれど。 ある人のことを文章にしたくなった。 とっても大切な人。 SNSはしていない人だから、連絡手段はメールだけ。 離れた場所に住んでいるから、なかなか会えない。 とっても優しくて暖かくて、わたあめみたいにふわっと甘くて、でも少しスパイシーで。 お喋りしてもしなくても、くっついていてもいなくても、近くにいると分かれば、この地球のどこかにいると分かれば、私も安心して少し優しくなれ

          大切だよと、伝える

          優しさに付着する何か。

          尊敬する方と話していた時、ふと自分の口から出てきたことで、「なるほど」と思ったことがあったので。 忘れないうちに、考察しながら文章化。 優しさには種類がある。 優しさが丸ごと違うというよりは、優しさに付着する成分に種類があると言った方が正確かもしれない。 強さ、厳しさ、しなやかさ、儚さ、弱さ、脆さ、傷つきやすさ、守りたい、大切だと伝えたい、自分にも同じく返してほしい… まだまだたくさんある。 理由ともいえる。根源ともいえる。 場面で、相手で、自分の持つ余裕でも変わ

          優しさに付着する何か。

          守るや救うという枠からの解放

          自然と関わっていると、色んな方々と出会えます。 ずーっとやってきた大先輩に、最近始めたピチピチさん。 みんな、それぞれ色んな信念を持ち、様々な視点から自然と自分の関係性を築き活動されている。 出発点も様々で、活動の矢印もエネルギーの根源もそれぞれ。 色んなエネルギーを源にして活動されている。 私が一緒に動きたい、学びたいと思う方は、目の前にある問題の本質を観察し、考え、様々な視点で遊ぶ様に動く人。 人間の利益を念頭においている方は周りにいなくて。 正直言いますと仲間は少

          守るや救うという枠からの解放

          山の人の声に入っている成分

          今日は朝からギラギラ太陽の下、畑や山やLaboであれこれ。 植物でお薬を仕込んだり、トゥルシーを大量に収穫して干したり、湧き水を汲みに行ったり、アメシロを観察したり。 好きな事ばかりで夢中になり楽しかったのだけど、暑さもあって夕方にはヘロヘロに。 そんな時、山の人から電話がきました。 「げんきー?」って。 その一言を聞いたら、自分でも驚くくらい元気に「元気!」って言ってました。笑っちゃうくらい、もう本当に元気が溢れ出して。 すごいなー。山の人の声を聞くと彼の山に入っ

          山の人の声に入っている成分

          それを、ふわりと名付けてみる。

          目的があって、行動する。 例えば、トマトが美味しそう、食べたいなーと思って、いくつか収穫する。 必要ならお水で洗って、食べる。 「おいしいなー」と思う。 「トマトを食べたくなって収穫して食べる」 不思議だなと思ったのは、この時間を思い返した時に記憶に残っているのはトマトの味や食べた数でも「食べた」でもない。 収穫時の日差しの強さ、トマトの皮の中に透けて見える美しい世界、ふと考えた大切な人の体調、洗ったお水の気持ち良さ、、、 行動の周りにふわっと点在する様々なこと。付

          それを、ふわりと名付けてみる。

          朝の顔

          少し急いで歩いていたら、ふと道の端に見つけてハッとする。 いーなー、こういうの。 好きだなー、こんな感じの。 余裕や余白を忘れずに。

          朝の顔

          自然を真似る。が、作り出す世界

          アリはどんな世界を見ているんだろうと思って。寝転んでも見えない世界をカメラを使って見てみた。 目線を変えたら、平坦だと思っていた道も世界で2番目に高い山にもなる。 絶対無理と諦めていたK2の様な崖の山も、回り道をしたら素敵な草原だったりもするんだね。 私は、どっちも好きだなー。基本的に楽はしたいけど、退屈は好きじゃないし。 途中で美味しいコーヒーとラムレーズンのチョコレートがあったら、幸せだな。 いつかテレビで見たんだけど、座右の銘を教えてという街頭インタビューでと

          自然を真似る。が、作り出す世界

          じんわりと淡々と。

          最近、何の目線で観察しているのか分からなくなってきました。 観察が日常になって、色んな目線で観察し続けていたら、どんどん自分がとろりと溶けて。 観察させてもらえる層が増える度に興味は増し、重なり合う様々な層を見つけ入っていく度に、私が必要なくなって。 色んな目線で観察していたら、ナニモノでもない不明確な、近い言葉を探すなら、きっと全てで観察している様な。そんな風に変化してきて。 辛うじて残っていた自分に戻って気付くのは、感動。ただただじんわりと、淡々と感動していた自分

          じんわりと淡々と。

          まいた種は忘れた頃に。

          ずーっと前にまいた種。すっかり忘れていたら、しっかり発芽していた。 ズンズン進んでいたら、いつの間にか遠くでしっかり出ている芽を確認して、言葉にならない様なじんわりとした感動の中にいました。 そういえば。人の前や真ん中で話すのは得意ではないので、みんなの中に種まきする様なワークショップをいくつかしてきました。 すでに種がある場合は、土壌を整えたりお水をまくことも。1番得意なのは、そこを照らすこと。1度照らせば、離れてもその光や熱は続いていたのだと、ここ数日でいくつもの芽

          まいた種は忘れた頃に。