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じんわりと淡々と。

最近、何の目線で観察しているのか分からなくなってきました。

観察が日常になって、色んな目線で観察し続けていたら、どんどん自分がとろりと溶けて。

観察させてもらえる層が増える度に興味は増し、重なり合う様々な層を見つけ入っていく度に、私が必要なくなって。

色んな目線で観察していたら、ナニモノでもない不明確な、近い言葉を探すなら、きっと全てで観察している様な。そんな風に変化してきて。

辛うじて残っていた自分に戻って気付くのは、感動。ただただじんわりと、淡々と感動していた自分に気が付く。

この心地良い時間は、あまりに情報が乱雑に入り組む人の作った世界には不向きで。

だから、私は情報が無理なく気持ち良く優しく行き交う森にいたいのだと気付く。人の影響を受けていない、意図の入っていない森に。


ふと思い出したのは、「真似る」という行為。観察を植物に絞っていた頃、私がその植物を無意識のうちに真似ていると気付く事があった。思考も役割も、呼吸も髪質も。その時はセイタカアワダチソウだったかな。その時に、今までこの人生の中心だと思っていた自分自身という存在が、なんてあやふやで不明確なものなんだろうと思って。そして、明確な繋がりを理解して施術も変わって、変化し続けて今になっているんだった。

と、ここまで書いて気が付いた。そうだ、6月だ。こんな風に取り留めもなく振り返るのは、死を想うから。6月になる度に死んで、また生まれる。引っ張られる様に、あの山に行く季節だった、1度死ぬ為に。

うっかりしてた。行って来よう。

へんてこりんな文章でした。最後まで読んでくださった方々にありがとう。きっと良いことありますよ。誰かが髪型とか褒めてくれると思います。

それ、お似合いです。今日も素敵ですよー!


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