守るや救うという枠からの解放
自然と関わっていると、色んな方々と出会えます。
ずーっとやってきた大先輩に、最近始めたピチピチさん。
みんな、それぞれ色んな信念を持ち、様々な視点から自然と自分の関係性を築き活動されている。
出発点も様々で、活動の矢印もエネルギーの根源もそれぞれ。
色んなエネルギーを源にして活動されている。
私が一緒に動きたい、学びたいと思う方は、目の前にある問題の本質を観察し、考え、様々な視点で遊ぶ様に動く人。
人間の利益を念頭においている方は周りにいなくて。
正直言いますと仲間は少ないです。
どこにも所属せず、きっとこんな感じでやっていくのだろうな。
前置きが長くなっちゃった。
さてさて。先日、ある方が「世界を救う」と書かれていました。
面白いなーと思って。
私にはない概念だから、興味深くて。ちょいと分解してみることにしました。
救うとか守る。たまに見かけます。
その前提には、「世界が誰かのせいでダメな状態になっている」がある。
だから、「救う」「守る」が出てくる。
「悪の組織が世界に酷いことをしているから、善となって救う!この私が!」
二元論の世界。なかなか面白いです。
さて、問題の本質は?
悪とは?
自分を善や正義とした場合、活動の途中で矛盾に気付き苦しまないかしら。
自分の活動を正義と定義してしまうと、問題の本質に気付けないんじゃないかな。
環境を守る、地球を救う、特定の動植物の為に戦う。
この悲しい二元論フレーム。
怒りや悲しみや不安スタートで、問題の本質を見ないまま、そのネガティブなエネルギーだけで走り出すと、ついつい自分の立ち位置、役割を知ることなく動いていくことになりやすい。何かを敵や悪として責任をなすりつける構図が出来上がりやすい。
短期間の表層だけの結果を求めるのなら、自分が気持ち良い結果だけを目標とするのなら、それでも良いのかもしれないけれど。
もしかしたら、敵とカテゴライズしたみんなも苦しんでいるんじゃないのか。
みんなも傷ついているんじゃないのか。
みんながみんなに優しい世界。
どこかの大企業だって、お金持ちさんだって、みんな頑張っている。
現実を維持し、さらに前進する為に必死。
詐欺師だって窃盗犯だって、みんな知恵を絞って必死。
何かを傷つけてまでとは思わないから、私は別な道を選ぶけど。
彼らにはそれを選択した理由がある。
二元論のフレームを外した時、見える世界は変わると思います。
楽しんでみれば良いんだと思って、生きています。
私は、色んな視線で観察して、自分に出来ることを考えて動いて変化を楽しみ続けていってみます。
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